大菩薩峠
みちりやの巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)噂《うわさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|晨朝諸々《じんちょうもろもろ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]
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一
武州沢井の机竜之助の道場に、おばけが出るという噂《うわさ》は、かなり遠いところまで響いておりました。
ここは塩山《えんざん》を去ること三里、大菩薩峠のふもとなる裂石《さけいし》の雲峰寺《うんぽうじ》でもその噂であります。
その言うところによると、この間、一人の武者修行の者があって、武州から大菩薩を越え、この裂石の雲峰寺へ一泊を求めた時に、雲衲《うんのう》が集まっての炉辺《ろへん》の物語――
音に聞えた音無《おとなし》の名残《なご》りを見んとて、沢井の道場を尋ねてみたが、竹刀《しない》の音はなくして、藁《わら》を打つ男の槌《つち》の音があった。
昔なつかしさに、その道場に一夜を明かしてみたところが、鼠のおばけが出たということ。木刀を取り直して打とうとした途端、その鼠の顔が、不意に、馬面《うまづら》のように大きくなったということ。
そこで、イヤな思いをして、翌日は早々、御岳山に登り、御岳の裏山から氷川《ひかわ》へ出で、小河内《おごうち》で一泊。小河内から小菅まで三里、小菅からまた三里余の大菩薩峠を越えて、あの美しい萱戸《かやと》の長尾を通って、姫の井というところにかかると、そこでまた、右の武者修行が、ゾッとするものを一つ見たということであります。
古土佐《ことさ》の大和絵にでもあるような、あの美しいスロープの道を半ばまで来た時分。俗にその辺は姫の井といって、路傍には美しい清水が滾々《こんこん》と湧いている。
朝は小河内を早立ちだったものですから、足の達者な上に、気を負う武者修行のことで、ここを通りかかった時分が日盛りで、ことにその日は天気晴朗、高山の上にありがちな水蒸気の邪魔物というのがふきとったように、白根、赤石の連山までが手に取るように輝き渡って見えたということです。それで、その、青天白日の六千尺の大屏風《おおびょうぶ》の上を件《くだん》の武者修行の先生が、意気揚々として、大手を振って通ると、例の姫の井のところで、ふいにでっくわしたのは、蛇《じゃ》の目の傘をさした、透きとおるほどの美人であったということですから、聞いていた雲衲《うんのう》も固唾《かたず》をのみました。
武者修行も、実は、そこで度胆《どぎも》を抜かれたということであります。
第一、前にもいった通りの青天白日の下に、蛇の目の傘をさして来るということが意表でありますのに、どこを見ても連れらしい者は一人もなく、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》として、六千尺の高原の萱戸《かやと》の中を、女が一人歩きして来るのですから、これは、山賊、猛獣、毒蛇の出現よりは、武者修行にとっては、意表外だったというのも聞えないではありません。
また、どうしても、細い萱戸の路で、摺《す》れちがわなければ通れません。
ところが右の蛇の目の美人は、あえて武者修行のために道を譲ろうともせずに、にっこりと笑って、自分を流し目に見たものですから、武者修行が再びゾッとしました。
こいつ、妖怪変化《ようかいへんげ》! と心得たものの、やにわに斬って捨てるのも、うろたえたようで大人げない。一番、正体を見届けて、その上で、という余裕から来る好奇《ものずき》も手伝ったと見えて、その武者修行が、
「どちらからおいでになりましたな」
と女に向ってものやわらかに尋ねてみたものです。そうすると女は、臆する色もなく、
「東山梨の八幡村から参りました」
ハキハキと答えたそうです。
「ははあ……そうして、どちらへおいでになりますか」
再び押返して尋ねると、女は、
「武州の沢井まで参ります」
「沢井へおいでなのですか」
武者修行は、わが刃《やいば》を以て、わが胸を刺されるような気持がしたそうです。
「はい」
女は非常に淋しい笑い方をして、じっと自分の懐ろを見入ったので、武者修行は、
「拙者もその沢井から出て参りましたが、あなたはその沢井の、どちらへお越しです」
三たび、その行方《ゆくえ》を尋ねました。
「沢井の、机竜之助の道場へ参ります」
「え?」
どうも一句毎に機先を制せられるようになって、武者修行は、しどろもどろの体《てい》となりましたが、
「あなたも、沢井の机の道場においでになりますのですか……実は拙者も、昨日あの道場から出て参りました」
「おや、あなたも沢井からおいでになっ
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