たのですか。いかがでございました、あの道場には、べつだん変ったこともございませんでしたか」
「イヤ、べつだん変ったことも……」
「わたしも久しく御無沙汰をしましたから、これから出かけてみるつもりでございます、皆様によろしく……」
といって、女は蛇の目の傘をさすというよりはかぶって、また悠々閑々として、萱戸《かやと》の路を行きかかりますから、暫くは件《くだん》の武者修行も、呆然《ぼうぜん》としてその行くあとを見送っていたということです。しかし、やがて気がついて、後ろから呼び留めて言いました、
「もし……」
けれども、蛇の目に姿を隠した女は、再び振返ってその面《かお》を見せようとはしないで、
「はい……」
返事だけが、やはり透きとおるような声であります。
「あなたは、お一人で、その八幡村から、これへおいでになったのですか」
「はい……」
「して、またお一人で、これから武州沢井までお越しになるのですか」
「はい……」
武者修行は、そこでもう追いすがる勇気も、正体を見届けくれんの物好きも、すっかり忘れてしまっていたそうです。
その時、青天白日、どこを見ても妖雲らしいもののない、空中がクラクラと鉛のようなものに捲かれて、何か知らんが圧迫を感じたのが、自分ながら歯痒《はがゆ》いと言いました。
そのうちに、右の女は榛《はん》の木の蔭に隠れて見えなくなってしまい、自分は早くも長兵衛小屋の下にたたずんでいたと言います。
雲峰寺の炉辺《ろへん》で、雲衲《うんのう》たちに、武者修行がこの物語をすると、雲衲たちも興に乗って、なお、その女の年頃や、着物や、髪かたちなどを、念を押してみたけれども、本来、衣裳物の目ききなどにはざっぱくな武者修行のことであり、いちいち分解的に説明してみろといわれて、甚《はなは》だ困惑の体《てい》であります。ただ一言、透きとおるような美人、という形容のほかには持ち合せないのが、かえって一同の想像の範囲を大きくし、それは年増《としま》の奥様風の美人であったろうというようにも見たり、また妙齢の処女だろうと見立てるものもあったり、その衣裳もまた、曙色《あけぼのいろ》の、朧染《おぼろぞめ》の、黒い帯の、繻子《しゅす》の、しゅちんのと、人さまざまの頭の中で、絵を描いてみるよりほかはないのでありました。
ほどなく、この炉辺の会話には、真と、偽と、事実と、想像との、差別がつかなくなりました。仏を信ずるものは往々、魔を信じ易《やす》く、真を語るには仮を捨て難く、事実の裏から想像をひきはなすことは、人生においてなし得るところではないと見えます。
右の武者修行の現に見た物語を緒《いとぐち》として、それから炉辺で語り出されるおのおのの物語は、主として甲州裏街道に連なる、奇怪にして、荒唐にして、空疎にして、妄誕《もうたん》なる伝説と、事実との数々でありましたが、この人たちは皆それを実在として、極めてまじめな態度を以て取扱っているのであります。
これはあながち笑うべきことでも、侮《あなど》るべきことでもありません。つい近代までの学者は、精苦して八十幾つの元素を万有の中から抽《ぬ》き出してみたが、電子というものが出てみると、その八十幾つの元素がことごとくおばけとなってしまいました。
しかもその電子の、過去と、未来とは、白昼の夢のわからない如く、わからないのであります。
二
次にその夜の物語。大菩薩峠伝説のうちの一つ――
富士の山と、八ヶ岳とが、大昔、競争をはじめたことがある。
富士は、八ヶ岳よりも高いと言い、八ヶ岳は、富士に負けないと言う。
きょう、富士が一尺伸びると、あすは八ヶ岳が一尺伸びている。
この両個《ふたつ》は毎日、頭から湯気《ゆげ》を出して――これは形容ではない、文字通り、その時は湯気を出していたのでしょう――高さにおいての競争で際限がない。
そうして、下界の人に向って、両者は同じように言う、
「どうだ、おれの方が高かろう」
けれども、当時の下界の人には、どちらがどのくらい高いのかわからない。わからせようとしても、その日その日に伸びてゆく背丈《せいたけ》の問題だから、手のつけようがない。
そこで、下界の人は、両者の、無制限の競争を見て笑い出した。
「毎日毎日、あんなに伸びていって、しまいにはどうするつもりだろう」
富士も、八ヶ岳も、その競争に力瘤《ちからこぶ》を入れながら、同時に、無制限が無意味を意味することを悟りかけている。さりとて、競争の中止は、まず中止した者に劣敗の名が来《きた》る怖れから、かれらは無意味と悟り、愚劣と知りながら、その無制限の競争をつづけている。
ある時のこと、毎日|晨朝諸々《じんちょうもろもろ》の定《じょう》に入《い》り、六道に遊化《ゆうげ》するという大菩薩
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