る途端を、あっ! と驚かしたのは、他の一人が、この場でパッと火をすったからです。素人《しろうと》ほどこわいものはない――七兵衛が呆れ返って、舌をまきました。
この場に至って、絵図面を取り出して見ようという緩慢さはまだしも、パッと無遠慮に火をすって、その火で絵図面を調べてかかろうとする度胸のほどが、怖ろしい。
「おやおや、燧《ひうち》じゃねえんだな、この人たちは摺付木《すりつけぎ》を持っているぜ」
と驚きながら、七兵衛があやしみました。
甲賀流の寸分すきのないいでたちの忍びの者にしては、さりとはハイカラ過ぎる。今時ハヤリはじめの西洋摺付木を、この人たちは持っている――自分も三本ばかり人からもらったことがあるが、あれは便利なもので、木でも、石でも、壁でも、すりつけさえすれば火がつく。その摺付木を、かなり豊富に持っている様子を見ると、益々《ますます》これはただ者ではない――と七兵衛は、その辺にも注意が向きました。
ところが、この四人は、その摺付木で取った火をろうそく[#「ろうそく」に傍点]へうつすと、そこで、悠々と絵図面をひろげて、ささやき合っているのはいいが、なかの一人は、その火で煙草をのみはじめたから、
「あ、物になっちゃあいねえ……」
七兵衛は、反《そ》りかえってしまいました。その道の者からいえば、この忍びの連中のやることは無茶だ。本当の忍びは、呼吸そのものさえ絶滅してしまわねばならぬ。煙草を吸った日には、三里先にいる動物だって逃げるではないか。
果して、一行のうちにも、多少は思慮の深いのがあって、
「君、煙草をのむことは、よした方がよかろうぜ」
と注意を与えると、
「そうか」
といって、素直にそれを揉《も》み消して、それからは極めてひっそりと、一本のろうそく[#「ろうそく」に傍点]に額《ひたい》をあつめて、絵図面の研究をつづけているうちに、その中の一人が、また制禁を忘れて、
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「失脚落チ来《きた》ル江戸ノ城、井底《せいてい》ノ痴蛙《ちあ》ハ憂慮ニ過ギ、天辺ノ大月高明ヲ欠ク……」
[#ここで字下げ終わり]
と、はなうたもどきにうなり出したものですから、その時に七兵衛が、
「ははあ、わかった、今時、薩摩屋敷の中で、こんな声がよく聞える、なるほどあの連中のやりそうなことだ」
と感心しました。
そうか、そんならばひとつ、こっちもいたずらをしてやれ、という気になりました。幸い、額をあつめて、絵図面の研究にわれを忘れているのがいい機会だ。
そこで七兵衛は、彼等のうしろへ手を延ばして行って、まず、かぎ縄をそっと奪い取り、次にめいめいの革袋を、そっと引きずって来て、動静いかにとながめている。
絵図面の上に一応の思案を凝《こ》らした一行は、いざとばかりに、ろうそく[#「ろうそく」に傍点]の火をふき消して立ち上ったのは、いよいよ早まり過ぎたことで、四方を暗くして後に、かぎ縄がない、燧袋《ひうちぶくろ》がない、あああの中に大切の摺付木《マッチ》を入れて置いたのだが――とあわて出したのは後の祭りであります。暗中で彼等はしきりに地上を撫で廻してダンマリの形をつづけたが、結局、ないものはない。
さすがの大胆者どもも、顔の色をかえたことは、その語調の変ったことでわかっている。そのささやき具合の狼狽《ろうばい》さ加減でわかっている。かぎ縄は、まんいち途中で落したかの懸念もないではないが、摺付木に至っては、現在このところで、ろうそく[#「ろうそく」に傍点]に火をつけ、あまつさえ、その火を煙草にうつしてのんだではないか――申しわけにも、途中で落したとはいえない。ろうそく[#「ろうそく」に傍点]は空しく手に残るが、それに点ずべき手段がない。
「何たるブザマなことだい、これじゃあ、一足も動けない」
「帰るに如《し》かず……」
「帰りもあぶないものだ」
彼等は、暗い中で途方にくれているらしい。
こうなっては、杖《つえ》を奪われためくら同様で、引返すよりほかはあるまいが、その引返しでさえ、うまく行くかどうか。
しかし、それは案ずるほどの事はなかったと見えて、この四人の一行は、それから間もなく、無事に江戸城外へ抜け出してしまって、八官町の大輪田という鰻屋《うなぎや》へ来ていっぱいやっているところを見ると、七兵衛が推察通り、薩摩屋敷の注意人物に相違ない。
この時は、無論、忍びの装束なぞはどこへかかなぐり捨てて、いずれも素面で、いっぱいやっているところは、何のことはない、丸橋忠弥を四人並べたようなものです。
「ほかのものはとにかく、摺付木《マッチ》をなくしたのが惜しい」
と忠弥組の一人、落合|直亮《なおすけ》がいう。
その当時、長崎から渡って来たばかりのマッチは貴い。
「品物を手に入れて置いて、ろうそく[#「ろうそく」に傍点
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