坂下御門を出て帰ろうとのもくろみまで立てているが、急いでそうせねばならぬ必要もないと考えている。
とにかく、七兵衛が城内の用心の存外手薄いことと、空気に弾力の乏しいことを充分に感知しながら、軽々しくこの地点を動き出さないのは、一つは功を急がないという腹が出来ているのと、もう一つは、ある時間の程度にはキッと見廻りの役人が通過するに相違ないから、それの来《きた》るのをここに待って、やり過ごしておいて、そうしてゆっくり進退をきめようとの了簡《りょうけん》と見える。
忍びの上手は、立木の間にかくれると、立木そのものになる。立木そのもののようになり得た七兵衛は、少しも城内の夜の気分と、自分というものの心を乱すということなく待っているが、果していくばくもなく、人の気配がうしろの方から起りました。
「来たな」
と七兵衛は心得たけれど、動揺はしない。動揺というのは身体《からだ》を動かすことだけではない、心を動かせば、空気は動くものであります。
しかし、これは変だぞ……と七兵衛があやしみました。
見廻りのお役人ではない。それは自分がしたのと同じように、吹上のお庭から、このお薬園の方へ、塀を乗越している者がある。
以ての外と七兵衛が、暗いところでその眼をみはりました。
生憎《あいにく》のことか、幸いか、七兵衛の眼は、暗中で物を見得るように慣らされていますから、今しも塀を乗越えて来る曲者《くせもの》。それは自分以上か、以下か知らないが、とにかく、このお城の中へ潜入した曲者を、別に眼の前に見ていることは確かです。
そこで、さすがの七兵衛も固唾《かたず》を呑んで、その心憎い同業者(?)の手並を見てやろうという気になりました。
見ているうちに、七兵衛はほほえみました。これはおれより手際《てぎわ》が少しまずい、まあ素人《しろうと》に近い部類だわい――と思いました。
だが、人数は自分より多く、いでたちもおれよりは本格だわい、と思いました。
たしかにその通り、今しも、吹上の庭から塀を乗越えたのは、都合四人づれだということが明らかにわかり、その四人づれが、とにかく、本格らしい甲賀流の忍びの者のよそおいをしていることによって、やはり尋常一様の盗賊ではあるまいと鑑定される。
さりながら、その忍入りの技術は、甚《はなは》だ幼稚なものだ――と七兵衛は、それを憐《あわ》れむような気にもなりました。ナゼならば、彼等はいずれも一生懸命で、鳴り[#「鳴り」に傍点]をしずめ、息をこらして、忍び込んでいるつもりではあるが、そのあたりの空気を動揺させること夥《おびただ》しい。
番人がなまけているからいいようなものの、気の利《き》いた奴に見つかった日にはたまらない。ああして下りて来るところを待構えていれば、子供でもあの四人をうって取れる……素人《しろうと》だな。気の毒なものだな。
しかし、素人にしては、あのいでたちの本格。忍びの者として寸分すきのない、たしかにすおう[#「すおう」に傍点]染の手拭で顔をつつみ、ぴったりと身につく着込《きこみ》を着て、筒袖、長い下げ緒の短い刀、丸ぐけの輪帯、半股引、わらじ。
こういったようないでたち[#「いでたち」に傍点]は、かいなで[#「かいなで」に傍点]の町泥棒にはやれない。
そこで七兵衛は、引続いて判断を加えてしまいました。
これは物とりに江戸城へ入り込んだのではない。他に重大なる目的あって来たのだ。四人とも、いずれも武士階級に属するもので、潜入者としては素人だが、忍びの術において、相当の知識と経験とを教えられ、その一夜学問で、この冒険を決行したものに相違ない。
事は面白くなった。七兵衛はそこで、玄人《くろうと》が、素人《しろうと》のする事を見て感ずる一種の優越感から、軽いおごりの心を以て、この新来の同業者――同業者でないまでも、同行者の仕事を、試験してやろうという気になりました。
玄人から見れば、極めて無器用な潜入ぶり。しかし素人としては大成功に塀を乗越した四人づれは、七兵衛のあることを知らず、やはり取敢《とりあ》えずの息つぎとして、このお薬園をえらんで、七兵衛のツイ眼と鼻の先へ来て、かがんで額をあつめたから、七兵衛も苦笑をしないわけにはゆきません。
「まずうまくいったな!」
「これからが大事《おおごと》だ。真暗《まっくら》でかいもくわからん、いったい、紅葉山はドレで、西丸はどっちの方だ?」
「左様」
彼等は、最低に声をひそめてささやき合ったつもりだろうが、こんなことでは、やはり物にならない。おれの耳には、十町先でこの声が聞える――と、七兵衛はまた、その時にもそう思いました。
「ちえッ――西も東も闇だ」
一人が懐中をさぐったのは、この場に至って、絵図面でも取り出すものらしい。まだるい話だ。七兵衛が呆《あき》れ
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