今、その最も賢い方法を取って、御行の松の下に、ぴったりと身をひそめているが、多少イマイマしいと癪《しゃく》にさわることがないでもない。
こういう種類の人間には、幸先《さいさき》や、辻占《つじうら》というようなものを、存外細かく神経にかけることがあるもので、七兵衛はそれほどではないが、全く無頓着というわけでもありません。
この屋敷へ、夜毎出入りすること幾度。それは正当に出て、正当に戻ったことは少ないにかかわらず、まだ今夜のように犬に吠《ほ》え出されたことがないのに、しかも今夜ほど大望をいだいて、この屋敷を出かけたことはない。
どうやら、仕事先が気にかかる。
「いけねえ、いけねえ……」
そこで、七兵衛が、何となく気を腐らせてしまいました。
七兵衛の心に、悔恨といったようなものが湧くのは、今にはじまったことではない。
七兵衛は、今度の仕事を終ったら、これで切上げ……と決心のような事をするのも、今にはじまったことではない。その心持につき纏《まと》われ、その心持で仕事にかかりながら、それをやり上げてしまうと、また新しい病が出ることを、自分ながら如何《いかん》ともし難い。
しかし、今度こそは一世一代……これで年貢《ねんぐ》を納めるか、引退して余生を楽しみ得るか、という千番に一番。
つまり、その大望というのは以前にいった通り、豊臣太閤伝来、徳川非常の軍用金、長さ一尺一寸、厚さ七寸、幅九寸八分、目方四十一貫ありと伝えられる、竹流し分銅《ふんどう》の黄金が、いま現に存在するか否かを確めた上、その一箇を手に入れてみたいということ。
神尾主膳のいわゆる大奥の間取り調べという事の如きは、頼まれたとすれば、七兵衛にとっては、片手間でありましょう。
暫くして、犬の吠え声が全くやみました。
五
それから、丑三《うしみつ》の頃、大胆至極にも、江戸城の一の御門の塀《へい》を乗越して潜入した、一つの黒い影があります。
この時の七兵衛は、根岸の化物屋敷を出た時のいでたちとは全く違い、笠も、合羽《かっぱ》も、いずれへか捨ててしまって、目に立たない色の手拭で頬かむりをして、紺看板のようなのに、三尺帯をキリリと結んで尻端折《しりはしょ》り、紺の股引《ももひき》と、脚絆《きゃはん》で、すっかりと足をかため、さしこ[#「さしこ」に傍点]の足袋をはき、脇差は背中の方へ廻して、その長い下緒《さげお》を、口にくわえていました。
それですから、例の菅笠《すげがさ》に合羽、という在来のいでたちとは全く趣を異にするのみならず、今までの七兵衛として、仕事ぶりにおいて、こうまでキリリと用心してかかったことはないようです。つまり一世一代の了簡《りょうけん》が、そのいでたちにまで現われて、今度の仕事は冗談じゃない、という気にもなったのでしょう。
ところで、難なく一の御門の塀を乗越えて、その塀の下をズッと走るとお薬園《やくえん》であります。お薬園の築山の下へ来て、七兵衛の姿が見えなくなりました。
見えなくなったのではない、動かなくなったのであります。鼠のように走って来た七兵衛が、とある木かげへ来て、ピッタリ吸いついてしまいました。
これまで決行するからには、もうあらかじめ城内の案内は、手に取るように頭に入れておいたに相違ない。あらかじめ神尾主膳あたりの手から、江戸城内の秘密図といったようなものを手に入れておいて、要所要所は、悉《ことごと》く暗記しての上からでなければ、こんな仕事にかかれようはずはない。
そこで、お薬園の木蔭にぴったり吸いついた七兵衛は、まず、ちょっと左へ寄ったうしろ、それが二の御門で、その裏が吹上の御庭構え。この門に、番人の気配のないことを見定めて後顧の憂いを絶ち、それから左前面に、こんもりとした紅葉山《もみじやま》をまともに見てから、その眼を右へ引いて行って、これが西丸……その西丸と、紅葉山との間を、七兵衛は暗いところから睨めているらしい。
『御宝蔵』はちょうど、その西丸と、紅葉山との間のところにある。
それと相対《あいたい》した前面が御本丸。ここまで来て見ると、天地の静かなことが案外で、征夷大将軍の城内をおかしたとは思われない。田舎《いなか》の広い鎮守《ちんじゅ》の森にでもわけ入ったような心持で、番人などはいないのか知らと思われる。いても急に出合うような弾力性のではなく、お役御免に近い老朽が、どこぞに居眠りでもしているのだろうとしか思われない。
しかし、何といっても征夷大将軍の本城である、その鷹揚《おうよう》なのに慢心してはならないと、七兵衛も、七兵衛だけの用心をして、容易にそのお薬園の茂みを立ち出でようとはしないらしい。それと一つは、まだ今晩のは瀬踏みに過ぎない。あわよくば進めるところまで進んで、本丸を突き抜いて、
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