こで一座は笑いながら、三十六年も大げさだが、これら女護の島の女人たちの多くが、性の悩みに堪《こら》えきれないでいることだけは明らかな事実で、その関を突破さえすれば、洪水のように流れ出して来るのだという。
あるものはまた言う、
大奥という池には、満々たる油が張りきっているのだ。こちらが行って堤をきれば、それは無論、一たまりもなく溢《あふ》れ出して来るのだが、そうするまでもなく、どうかすると、あちらから堪えきれずして堤を破って動いて来る。江島《えじま》生島《いくしま》の事になったり、延命院の騒ぎが持上ったり、或いは長持に入れて小姓を運んだり、医者坊主が誘惑されたりするのは、ホンの小さな穴をあけて表に現われただけの落ちこぼれで、張りきった油は、その中にどろどろとして、人の来って食指を動かすのを待っている。
その時分、夜も大分ふけて、屋敷の外でしきりに犬がほえだしたものですから、一同が、申し合わせたようにピタリと密議をやめて、
「イヤに犬がほえるじゃないか」
何かしらの不安におびえる心持。それを神尾主膳も暫く耳をすましていたが、
「心配することはない、使の者が戻ったのだろう」
という。
「使の者とは……」
神尾のとりすました言葉に、不審をいだく者がある。
今時分、何のために、どこへ使を出したのか、解《げ》せないことである。
「江戸城の、大奥の間取りを見て来るといって出かけたはずだが、多分、それが戻って来たのだろう」
「冗談《じょうだん》じゃない」
一座は呆《あき》れ返りました。神尾が抜からぬ顔でいうものだから、冗談とも思われないので、また呆れました。
そんなら計画はそこまで進んでいたのか。これは今夕のやや程度の進み過ぎた座談とばかり思うていたのに、早や細作《さいさく》を、千代田の城の大奥まで入れてあるらしい神尾の口吻《くちぶり》には、真偽未了ながら、その進行の存外深刻なのに恐怖を抱く程度で、呆れたものもあります。
「冗談じゃない……」向う横町の貸家の、敷金と家賃をたしかめに行くのとは違い、いやしくも江戸城の大奥の間取りを、ちょっと見て、ちょっと帰って来る、というようなことが出来得べきことではない。そんなことは、われわれが駄目を押すまでもなく、神尾自身が先刻心得ていなければならないはずのこと。
「そりゃいったい、何のおまじないだ」
犬は外でどうやら吠《ほ》えやんだ様子。犬は静まったが気のせいか、周囲の竹藪《たけやぶ》が、しきりにザワザワとざわついているらしいのが一層気になる。
「ハハハハ……」
と神尾は、わざとらしく高笑いして、このところへ、今その当人の現われ出づるのを待つもののようです。
だがしかし、主膳の言うことは嘘ではありませんでしたが、見当違いでありました。
その使の者というのは、戻って来たのではなく、これから出て行くところであります。
出て行く時に、尋常に門をくぐらないで、門の中に生えた竹によじのぼり、その竹のしない具合を利用して、ポンと塀の外へ下り立ってしまったものだから、おりから通りがかりの野良犬を驚かしたものと見えます。
この男は地へ下り立つと、パッパと合羽《かっぱ》の塵を払い、垣根越しに屋敷の奥の方の燈《ともし》の光をすかし、それから笠を揺り直し、草鞋《わらじ》の紐《ひも》をちょっといじってみて、
「二足のわらじははけねえ……色は色、慾は慾」
とつぶやいてみたが、
「両天秤《りょうてんびん》にかかると、命があぶねえぞ……」
とその足を二三度踏み慣らしてみて、それからかきけすように姿をかくしたのは、裏宿《うらじゅく》の七兵衛であります。
七兵衛が姿をかき消したかと思う時分に、今ちょっと静まった犬が、またほえ出しました。一つがほえると、次から次へ、根岸の里の犬が総ぼえの体《てい》になって、寝ていた人をさえ驚かしてしまいました。
いったん、姿をかくした七兵衛が、また御行《おぎょう》の松の下に姿を現わしたのはその時で、
「いけねえ……こう犬にほえられちゃあいけねえ」
と息をついて立った有様は、海へ泳ぎ出して、いくばくもなく鱶《ふか》にであって、あわてて岸へ泳ぎ戻ったような有様で、七兵衛としては、かなりに不手際といわねばならぬ。
七兵衛は、夜歩きしても犬にほえられないような秘訣を知り、またほえられても、その瞬間に、それを手なずける秘訣を知っているのでありますが、今晩は思いがけないドジを踏んで、ちょっと手のつけられない程度に犬をコジらかしてしまったものだから、ぜひなくここまで舞戻ったものと見えます。
もし、これを舞戻らないで強行しようものならば、わざわざ網にひっかかりに行くようなものですから、七兵衛としては、ここまで舞戻り、再び犬の鎮静するのを待って、繰り出すより賢い道はないと見える。
七兵衛は
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