顔しないで食べるよ」
そこで与八の顔を見上げて、
「ねえ、与八さん、残り物でもなんでもいいんだね、志だからね、与八さんに志を食べてもらうんだから、残り物でもなんでもかまわないよ、ねえ、与八さん」
ませ[#「ませ」に傍点]たことを言い出すと、悪太郎が引取って、
「こころざしって何だい、こころざしなんて食べられるかい、へへんだ、こころざしより団子の串ざしの方が、よっぽどうめえや、ねえ、与八さん」
しかし、それからまもなく与八は、お初穂であろうとも、残り物であろうとも、かまわずに取って食べてしまったから、この議論はおのずから消滅して、皆々、一心になって、与八の口許《くちもと》をながめているばかりであります。そのうち誰かが、
「大《でけ》えからなあ!」
とつくづく驚嘆の声を放つと、一同が残らず共鳴してしまいました。
「大えからなあ!」
実際、与八の身体《からだ》の巨大なる如く、その胃の腑《ふ》も無限大に大きいと見えて、あらゆる御馳走を片っぱしから摂取して捨てざる、その口許の大きさは、心なき児童たちをも驚嘆させずにはおかなかったものと見えます。
その後、子供たちは遂に与八さんを、小舟に乗せて遊ぼうじゃないかと言い出しました。
「ああ、それがいいや、先に与八さんに石を積んで大勢して遊んだから、今度は与八さん一人を舟に乗せてやろう」
忽《たちま》ちに気が揃って、与八ひとりが舟に乗せられ、素早く裸になった子供たちは、ざんぶざんぶと川へ飛び込んで、その舟を前から綱で引き、両舷《りょうげん》と後部から、エンヤエンヤと押し出して、多摩川の中流に浮べました。
従来、与八は、馬鹿の標本として見られておりました。今日とてもその通り。ただ馬鹿は馬鹿だが、始末のいい馬鹿というにとどまるのが与八の身上であります。
狡猾《こうかつ》なのは、この馬鹿の力を利用して、コキ使い、米の飯を食わせるといって、食わせないで済ますことが、子供の時分から多いのでありますが、与八は欺《あざむ》かれたとても、あんまり腹を立てないことは今日も変ることがありません。
欺かるるものに罰なし。それをいいことにして、ばかにし、利用し、嘲弄《ちょうろう》している者が、暫くあって、なんだか変だと思いました。
欺かるる者に平和があり、微笑があるのに、欺いた自分たちに幸いがない。与八を追抜いたつもりで、さて振返って見ると、後ろには与八がいないで、ずんと先に立っているのを見て、ハテナ、と首を傾けた者が一人や二人ではありませんでした。このごろでは、
「与八をだますと、ばちが当る」
誰いうとなく、そんな評判が立つようになりました。
というのは、与八をだまして利用した者の、最後のよかったものは一つもないからであります。
与八が、ばかにされ通しで、ほとんど絶対におこらないのを見て、おこるだけの気力のないものと見込んだのが、おこる者よりも、おこらない者のむくいがかえっておそろしい、というように気を廻したものが現われるようになりました。
だが、この男に、微塵《みじん》も復讐心《ふくしゅうしん》の存するということを信ずる者はありません。
表面、愚を装うて、内心|睚眦《がいさい》の怨《うら》みまでも記憶していて、時を待って、極めて温柔に、しかして深刻に、その恨みをむくゆるというような執念が、この男に、微塵も存しているということを想像だもするものはないのであります。
馬鹿は馬鹿なりでまた強味があるものだ、と人が思いました。
今でも、与八が馬に荷物をつけて通りかかるのを見て、
「与八さん、後生《ごしょう》だから、ちっとべえ手伝っておくんなさい、与八さんの力を借りなけりゃ、トテも動かせねえ」
といって、何か仕事をたのむことがあると、与八は二つ返事で承知をして、そのたのまれた仕事にかかるのですが、その時は、まず馬をつないで、それから馬につけた荷物を、いちいち取下ろして地上へ置いてから、はじめてたのまれた仕事にかかるのであります。そうして、たのまれた仕事を果すと、その荷物をいちいちまた馬に積みのせて、それから前途へ向って出かけるのであります。
ある人が、そのおっくうな手数を見て、与八さん、ちょっとの間だから、馬に荷物をつけて置いておやりなすったらどうだい、いちいち積んだり、卸したり、大変な事じゃねえか……というと、与八は答えて、馬にも無駄骨を折らせねえように……と言います。そこが馬鹿の有難味だといって、みんなが笑いました。
しかし、こういうような与八の無駄骨を見て、笑う者ばかりはありません。ある時、御岳道者が、この与八のおっくうな積みおろしを見て感心して、
「ちょうど、丸山教の御開山様のようだ」
と言いました。
丸山教の御開山様というのは、武州|橘樹郡《たちばなごおり》登戸《のぼりと》の
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