農、清宮米吉のことであります。
 この平民宗教の開祖は、馬をひっぱって歩きながら、途中で御祓《おはら》いをたのまれると、これと同じように、いちいち荷物を積み卸しの二重の手間をいとわず、馬をいたわって、しかして後に御祓いにかかったものであります。
 この人は、また言う、
「おれは朝暗いうちから江戸へ馬をひいて通《かよ》ったが、ただの一ぺんでも馬に乗ったことはないよ」
 いやしくも、一教を開く者にはこの誠心《まごころ》がなければならない。与八のは、必ずしもその形だけを学んだものとは思われません。
 それから、また一つ不思議なことは、木を植えても、農作物を作っても、与八がすると、極めてよく育つことであります。
 同じように種をまいて、同じように世話をして、それで与八のが特別によく育って、よく実るのが不思議でありました。
 ある時、老農がこの話を聞いて、与八の仕事ぶりを、わざわざその畑まで見に来て、
「なるほど、まるで岡山の金光様《こんこうさま》みたようだ」
といいました。
 この老農は、どこで金光様の話を聞いて来たか知らないが、与八の仕事ぶりを見て、そこに共通する何物をか認めたと見え、
「作物をよく作る第一の秘伝は、作物を愛することだ」
とつぶやいて帰りました。
 それだけで老農は、与八のまいた種が、他と比較して特別によかったとも言わず、その地味が一段と立越えていたとも言わず、肥料が精選されていたとも言わずに帰りましたから、わざわざ連れて来た人が、あっけなく思いました。

 備前岡山の金光様は……と、それから右の老農が、附近の農夫たちを集めての話であります。
 これも日本に生れた平民宗教の一つ……金光教の開祖は、備州浅口郡三和村の人、川手文次郎であります。
 自分の子供を、先から先からと失って行った文次郎は、その愛を米麦に向って注ぎました。
 子を思う涙が、米や麦にしみて行きました。人を愛する心と、物を愛する心に変りはありません。子を育てるの愛を以て、米麦を育てるのですから、米麦もまた、その育てられる人に向って、親の恵みを以て報いないというわけにはゆきますまい。
 農夫と作物とは、収穫する人と、収穫せらるる物との関係ではなくして、育ての親と、育てられる子との関係でありました。
 ある年のこと、浮塵子《うんか》が多く出て、米がみんな食われてしまうといって、農民たちが騒ぎ出し、石油を田にまいて、その絶滅を企てたけれども、文次郎だけは石油をまかなかったそうです。それだのに収穫の時になって見ると、石油をまいた多くの田より、まかなかった文次郎の田の収穫が遥《はる》かに勝《まさ》っていたということです。
 また、ある年のこと、米を作るのに追われて、麦を乾かさないで納屋《なや》へしまい込んでしまったが、文次郎の麦には虫が入らなかったが、同じように麦をしまい込んだ他の百姓は、みんな虫に食われてしまったということであります。
 これはなんでもないことです。ただ作物を人として扱うのと、物として扱うだけの相違であります。石油を注ぐことの代りに、愛情を注ぐだけの相違であります。日に当てなくとも、温かい心を当てていただけの相違なのに過ぎません。
 そう言って、老農は、植林も農業も、地味、種苗、耕作は第二、第三で、作物をわが子として愛するの心、これよりほかによき林をつくり、よき作物をつくる方法はないものだということを、懇々と説明して帰りました。
 つまり、この老農は、農政学も、経済学も教えない第一義を、与八を例に取って説明をして帰りましたのです。

 徳川の中期以後、日本には多くの平民宗教が起りました。
 法然《ほうねん》、親鸞《しんらん》、日蓮といったように、法燈赫々《ほうとうかくかく》、旗鼓堂々《きこどうどう》たる大流でなく、草莽《そうもう》の間《かん》、田夫野人の中、或いはささやかなるいなかの神社の片隅などから生れて、誤解と、迫害との間に、驚くべき宗教の真生命をつかみ、またたくまに二百万三百万の信徒を作り、なお侮るべからざる勢いで根を張り、上下に浸漸《しんぜん》して行くものがあります。
 眇《びょう》たる田舎《いなか》の神主によってはじめられた、備前岡山の黒住教もその一つであります。
 たれも相手にする者のなかった、おみき婆さんの天理教もその一つであります。
 金光教の金光大陣も、丸山教の御開山も、ほとんど無学文盲の農夫でありました――与八のことは問題外ですが、万一、こんな行いがこうじて、与八宗がかつぎ上げられるようなことにでもなれば、それは与八の不幸であります。

         四

 根岸の、お行《ぎょう》の松《まつ》の、神尾主膳の新ばけもの屋敷も、このごろは景気づいてきました。
 それは、七兵衛が、例の鎧櫃《よろいびつ》に蓄《たくわ》えた古金銀
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