傍点]さえあればいなか廻りをして、古来伝えられた民謡と舞踊とを、調べて歩くのを楽しみにしていた。それをお松は、この場に思い合わせて、人間には教えることのほかに、楽しむことの大なる意味を見出し、趣味の方面に、また一つの窓が開かれたように覚えました。
 獅子舞が済んだ時分に、与八が、ブラリとしてこの地蔵の庭へやって来ました。
 それを早くも見つけた子供たちが、
「与八さんが来たよ」
「お人よしの与八さんが来たよ」
 腰から下に、子供たちが群がったところを見ると、与八の巨躯《きょく》が、雲際《うんさい》はるかに聳《そび》えているもののようです。
「お人よしなんて言うのをよせやい、ねえ、与八さん」
 あるものは、与八の帯に飛びつく。
「与八さん、今日は一人なの?」
 女の子は、やさしく言う。
 与八が一人で、ブラリと出て来ることは珍しいことであります。大抵の場合には、その背中に子供を負うて、左右には何かを携えている。それが今日に限って、背中にも子供がいないし、左右も手ブラですから、それが子供の目にもついたらしい。
「与八さん、いい着物を着て来たね、袂《たもと》があるのね」
 これもまた珍しいことです。与八がよそゆきの着物を着出すことも滅多にないことであるし、しかもその着物に袂までついた仕立おろしと来ているから、子供たちの驚異の的となるのも無理はありますまい。
 藍縞《あいじま》の、仕立おろしの、袂のついた着物を着た与八は、恥かしそうに、その巨大なる身体をゆるがせつつ動き出すと、無数の子供が身動きのできないほど、その前後左右に取りついてしまいました。
「与八さん、何かして遊ぼうよ」
 これは、単に子供たちの注意をひくのみならず、人並外《ひとなみはず》れた巨大な男が、子供の海の中を、のそりのそりとほほえみながら歩いている有様は、誰が見ても一種の奇観であると見えて、歩みをとどめて、手を額《ひたい》にして、その奇観を仰ぎ見ない大人もありません。
「与八さん、『河原の石』をして遊ぼうね、いいかい、みんな、ここで『河原の石』をして遊ぶんだぞ」
 与八は、早くも子供たちのために、杉の木の下の芝生の上へ押し据《す》えられてしまいました。
 与八を、杉の木の下の芝生の上へ押し据えてしまった子供たちは、あたりの小石を拾いはじめ、それで足りないのは、わざわざ河原まで下りて行って小石を拾い集め、それを与八の坐った膝のところから積みはじめ、肩の上に及びました。
「動いちゃいけないよ、これから頭だよ」
 膝と、肩の上へ、積めるだけ積み上げた子供らは、踏台をこしらえて、与八の頭の上まで石を積みにかかりました。
「頭の上はよせやい、与八さんだって、頭が痛いだろう」
「いいねえ、与八さん、いいだろう、お前の頭の上へ石を積んだって、かまやしないね、一重《いちじゅう》組んでは父のため、二重組んでは母のため……なんだから」
 与八は、だまってすわったまま、相変らずほほえんでいるばかりであります。
「三重組んでは……あ、いけねえ」
 頭の上は、膝の上よりも、肩の上よりも、いっそう、石の安定がむずかしいと見えて、せっかく積んだ石が崩《くず》れる。
 崩れた石が、下に積み上げた膝の上をまた崩す。子供たちはそれをまた下から積み直す。
 見ているところ、入りかわり立ちかわり、石を高く積んだものほど手柄に見える。
 人の積んだ石の上へ、自分の石を積みそこねたものは、自分のあやまちのみならず、人の積んだ石を崩すの罰まで、二重に受けねばならぬことになっているらしい。
 そこで子供らは、いよいよ高く石を積んで、いよいよその手柄を現わそうとするが、積み得て喜ぶ後ろに、崩れて悲しむの時が待っている。
 積んでは崩し、崩しては積んで興がる子供たちは、与八の存在ということを忘れてしまっている。然《しか》れども、この男にあっては、遊ぶことと、遊ばせることとが同一で、子供らがわれを道具にして遊ぶ間は、その楽しみを妨げないことが、また自分の遊びであるらしく思われるのであります。
 ことに、与八はこの「河原の石」という遊びを妨げないために、子供らに向って、自分の義務というものの存することを悟っているらしい。
 それは、以前、子供らが「穴一」という遊びを盛んに流行《はや》らせている時分に、与八がそれをやめさせて、身を以て彼等の遊び道具に提供し、この「河原の石」を始めさせたという履歴を持っているものですから、ここへ子供を導いて、かりそめにも一重組んでは父のため、二重組んでは母のため……という言葉が、子供たちの口から唄われるということを悪くは思えないのです。
 そのうちに、与八が一つクシャミをしました。クシャミをしたことによって、頭の石が落ちると、はじめて与八が生きていたということを、子供たちが悟ったもののようで
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