ました。こういう場合には、その悠々閑々の方が、話すにも、聞くにも、都合がよい。
八面大王のいわれはこうです――
桓武天皇《かんむてんのう》の御代《みよ》、巍石鬼《ぎせっき》という鬼が有明山に登って、その山腹なる中房山《なかぶさやま》に温泉の湧くのを発見し、ここぞ究竟《くっきょう》のすみかと、多くの手下を集めて、自ら八面大王と称し、飛行自在《ひぎょうじざい》の魔力を以て遠近を横行し、財を奪い、女を掠《かす》め、人を悩ました。
坂上田村麿《さかのうえのたむらまろ》が勅命を蒙って、百方苦戦の末、観音の夢のお告げで、山雉《やまきじ》の羽の征矢《そや》を得て、遂に八面大王を亡ぼした。
その時のなごりで、有明神社の祭礼のうちに、八面大王の仮装がある。
大王にふんする鬼が、附近の女を奪って帰ると、それを、田村麿にいでたつものが、奪い返して大王の首を斬る、という幼稚|古朴《こぼく》な仮装劇が、ある時代に、若いものの手で行われたことがあるという。
つまりはその古式を復興して、いま、馬上で走《は》せて行った鎧武者《よろいむしゃ》が、つまり八面大王なのだ、あれが中房へ行くと、田村麿の手でつかまります――という。
最初の時代には、なんでもあの八面大王が、そこらにいあわす女ならば、女房でも、娘でも、かまわず引っさらって、生《しょう》のままで、荒縄で引っかついで行ったものだが、今は相当遠慮して、女はあのつづらの中へ入れて参ります――という。
では、あのつづらの中には、かりに掠奪された女がいるのか――その女こそいい迷惑だ、と兵馬が笑止《しょうし》がりました。
二十三
こうして仏頂寺、丸山らは、煙の如く長野へ向けて立ってしまい、宇津木兵馬は、アルプス方面の懐ろへ向って参入せんとする場合に、ひとり道庵先生と米友のみが、同じところにとどまっているべき理由も必要も、あるはずはありません。
果《はた》して道庵先生は、起きて朝飯が済むと共に、床屋を呼びにやりました。
床屋が来ると、先生は従容《しょうよう》として鏡の座に向い、何か心深く決するところがありと見え、
「エヘン」
とよそゆきの咳払《せきばら》いをしました。
床屋は先生の心のうちに、それほど深く決心したところがあると悟る由もありませんから、やはり、従前通りの惣髪《そうはつ》を整理して、念入りに撫でつけて、別製の油でもつけさえすれば仕事が済むのだと、無雑作《むぞうさ》に考えて、先生の頭へ櫛《くし》を当てようとすると、
「待ってくれ――少し註文があるですからね」
と右の手を上げて、合図をしました。
ぜひなく床屋が、櫛をひかえて、先生の註文を待っていると、
「ところで、床屋様、わしは今日から百姓になりてえんだよ……武者修行はやめだ、やめだ」
と言いましたから、床屋はよくのみ込めないでいると、道庵が、
「うまく百姓にこしらえてくんな! 茨木屋《いばらぎや》のやった佐倉宗五郎というあんべえ式に、ひとつやってくんな!」
「お百姓さんのように、髪を結い直せとおっしゃるんでございますか、旦那様」
「そうだよ、すっかり百姓|面《づら》に、造作をこしらえ直してもらいてえんだよ」
そこで床屋は変な顔をしてしまいました。
見たところ、相当に品格もある老人で、少々時代はあるが、塚原卜伝の生れがわりといったような人品に出来ているから、相当の敬意を以て接してみると、口の利き方がゾンザイであったり、いやに御丁寧であったりして、結局、この惣髪を、普通の百姓に見るような髷《まげ》に直してしまえ、と註文であります。
床屋が当惑しているに頓着なく、道庵は、鏡に向って気焔を吐き、
「百姓に限るよ、百姓ほど強い者はねえ……いざといえば、誰が食物を作る。食物を作らなけりゃ、人間が活《い》きていられねえ。その生命の元を作るのは誰だ――と来る。この理窟にゃ誰だってかなわねえ、武者修行なんざあ甘《あめ》えもんだ、おれは今日から百姓になる!」
さては先生、先日の芝居で、信州川中島の百姓たちが、大いに農民のために気を吐いたのを見て、忽《たちま》ち心酔し、早くも武者修行を廃業する気になったものと見えます。
つまり先生の考えでは、武芸で人をおどすなどはもう古い、食糧問題の鍵をすっかり自分の手に握って置いてかからなければ、本当の強味は出て来ない――というようなところに頭が向いて、自然、一切の造作をこしらえ直す気になったものと見えます。
床屋は、やむなく、註文を受けた通りに造作にとりかかる。惣髪は惜気もなくそり落して丸額《まるびたい》にし、びん[#「びん」に傍点]のところはグッとつめて野暮《やぼ》なものにし、まげのところも、なるべく細身にこしらえ上げて、やがてのことに、百姓道庵が出来上ってしまいます。
道庵つくづ
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