るのは、まごうべくもない昨晩の手古舞《てこまい》の姿。
 ああ、嫉妬がついに人を殺した、焼餅もうっかりは焼けないと騒ぐ。旦那殿は、意地も、我慢も忘れて、自分が溺れでもしたように、大声をあげて救いを求める。
 水に心得たものがあって、忽ち井戸へ下りて行ったが、つかまえて見ると意外にも、それは着物ばかりで、中身がなかった。
 ただし、その着物ばかりは、まごうかたなき昨晩のあの芸者の着ていた手古舞の衣。
 では、中身が更に水底深く沈んでいるに違いない。
 水練の達者は、水面は浅いが、水深はかなり深い水底へくぐって行ったが、やや暫くあって、浮び出た時には藁《わら》をも掴《つか》んではいなかった。
 つづいて、もう一人の水練が、飛び込んでみたがこれも同様。
 水深一丈もあるところを、沈みきって隈《くま》なく探しはしたけれど、なんらの獲物《えもの》がない。
 そこで、また問題が迷宮に入る。
 いしょうだけがあって、中身がないとすれば、その中身はどこへ行った。
 ああ、また一ぱい食った!
 太閤秀吉が、蜂須賀塾にいた時分とやらの故智を学んで、着物だけを投げ込んで、人目をくらましておいて、中身は逃げたのだ。
 どうしても、しめし合わせて知恵をつけた奴がある。
 そうして、この場合、いったん、帳消しになって宿の主人を安心させた宇津木兵馬と、仏頂寺、丸山の両名が、またしても疑惑の中心に置かれる。
 立って無事だと思ったのが、立ったことがかえって疑惑になる。さては、あの連中、しめし合わせて女をつれて逃げたな。
 そこでこの疑惑が、三人を追いかけるのも、是非のない次第です。

         二十二

 兵馬は、札の辻の温泉案内の前に立ちつくして、安からぬ胸を躍《おど》らせておりました。
 そうしているところへ、松本の町の方から、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》として、白木の長持をかついだ二人の仕丁《しちょう》がやって来ました。
 兵馬が見ると、その長持には注連《しめ》が張って、上には札が立ててある。その札に記された文字は、
[#ここから1字下げ]
「八面大王」
[#ここで字下げ終わり]
 妙な文字だと思ったが、ははあ、これはこの附近の神社から、昨今の松本の塩祭りへ出張をされた神様の一体か知らん、とも考えられる。
 兵馬は、その長持のあとについて歩き出したが、この長持の悠々閑々ぶりは徹底したもので、到底行を共にするに堪えないから、ある程度でお先へ御免を蒙《こうむ》ることにする。
 そうして兵馬が、長持を追いぬけて、有明道《ありあけみち》を急ぐことしばし。
 ほとんど一町ともゆかぬ時に、戞々《かつかつ》と大地を鳴らす馬蹄《ばてい》の響きが、後ろから起りました。
 そこで、兵馬もこれがために道を譲らねばなりません。道を譲って何気なくその馬を仰ぐと、これもまた驚異の一つでないことはない。
 上古の、四道将軍時代の絵に見るような鎧《よろい》をつけた髯男《ひげおとこ》が一人、巴《ともえ》の紋のついたつづらを横背負いにして、馬をあおってまっしぐらにこちらをめがけて走らせて来るのです。
 おかしい! 夷《えびす》が今時、何の用あって、この街道を騒がすのだ。しかし、それは、やっぱり以前の長持と同じように、ある神社の祭礼の儀式のくずれだろう――と見ているうちに、馬も、人も、隠れてしまいました。
 だが、あの古風な、四道将軍時代を思わせるような鎧はいいが、調和しないのは、あのつづらだ。あれがあまりに現代的で、調和を破ることおびただしい。祭礼の帰りに、質を受け出して来たのではあるまい。同じことなら、もう少し工夫がありそうなものだ。もう少し故実らしいものを背負わせたらよかろう……と、よけいなことながら、そんなことまで、兵馬の頭の中をしばらく往来している時に、
「はい、御免なさいよ」
 気がつかないでいた、今の先、その緩慢ぶりにひとり腹を立って追いぬいて来た、あの悠々閑々たる長持が、はや兵馬の眼の前へ来て、道を譲らんことを求めているではないか。
 このまま立っていると、やはりこの長持にさえ道を譲らねばならぬ。馬も千里、牛も千里だと思いました。
 そこで、兵馬は思案して、今度はしばらくその悠々閑々たる長持氏と行を共にし、少しく物を尋ねてみたいという気になる。
「この長持の中は、何ですか」
「これはね、八面大王の剣《つるぎ》でございますよ」
「刀ですか」
「剣ですよ」
「ははあ……そうして、いま、馬で盛んに飛ばして行った、あれは何ですか」
「あれは八面大王ですよ」
「ははあ……」
 兵馬は、それがわかったような、わからないような心持で、
「八面大王というのは、いったい、何の神様ですか」
「左様……」
 悠々閑々たる仕丁《しちょう》は、そこで兵馬のために、八面大王の性質を物語りはじめ
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