くと、その百姓|面《づら》を鏡に照らし合わせながら、
「尚書《しやうしよ》に曰《いは》く、農は国の本、本固ければ国安しとありて、和漢とも、農を重んずる所以《ゆゑん》なり。農事の軽からざる例は礼記《らいき》に、正月、天子自ら耒耜《らいし》を載せ給ひて諸侯を従へ、籍田《せきでん》に至つて、帝|耕《たがや》し給ふこと三たび、三公は五たび、諸侯は九たびす、終つて宮中に帰り酒を賜ふ、とあり、天子諸侯も農夫の耕作を勤むる故に飢を知り給ひ、さりとて、官ある人、農を業とすべきにあらざれば、年の首《はじめ》、農に先だつて、聊《いささ》かその辛苦の業を手にふれ給ふ、実に勿体《もつたい》なくも有がたき事ならずや……」
 滔々《とうとう》としてやり出したものですから、これは気狂《きちが》いではないかと、床屋が顔の色を変えました。
 かくてその日、この宿を立ち出でた道庵先生の姿を見てあれば、わざと笠をぬいで素顔を見せたところ、竪縞《たてじま》の通し合羽《かっぱ》の着こなし、どう見ても、印旛沼《いんばぬま》の渡し場にかかる佐倉宗吾といった気取り方が、知っている者から見れば、ふざけきったもので、知らない者は、あたりまえのお百姓と見て怪しまぬほどに、変化の妙を極めておりました。
 さて、そのあとから、少し間をおいて続いた宇治山田の米友。これは、前来通りと別に異状はありません。
 行き行きて、この二人が、例の芝居小屋の前まで来ると、数日まえの景気はなく、立看板に筆太く、
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「大衆演劇、近日開場」
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と書いてありました。
 それを見ると、道庵先生が足をとどめて、しばらく打ちながめ、
「ははあ、大衆演劇」
と首を傾《かし》げました。
 大衆とはいったい何だろう――道庵は、しきりにそれを考えながら、足を運び出しました。そこでひとりごと――
 大衆というのは「坊さん仲間」ということで、よくそれ、太平記などに一山の大衆とあるが、大衆が芝居をやるというのは解《げ》せねえ、坊さんが出て芝居をやるというのはわからねえ、いかに物好きな坊さんだって、芝居小屋を借りて、坊主頭を振り立てて踊ろうというほどの豪傑はなかろう。第一、それでは寺法が許すまい。狂言綺語《きょうげんきぎょ》といって、文字のあやでさえもよしとはしない仏弟子が、進んで芝居をやり出そうとは思われぬ。してみると、これはつまり、坊さん役のたんと出る芝居だろう。たとえてみれば道成寺といったように、坊主が頭を揃《そろ》えて飛び出す芝居かも知れない。そこで大衆演劇と名をつけたんだろう。そうに違いない。そうでなければ「かっぽれ」かな……喜撰《きせん》でも踊るのか知ら。
 この大衆の文字が、少なからず道庵先生をなやませました。
 そうだ――おれは大衆という文字を、一途《いちず》に坊さんの方へばかり引きつけていたのがよくない。外典《げてん》のうちに、つまり漢籍のうちにも、この大衆という文字はないことはなかろう。まてよ、いま、天性備えつけの百味箪笥《ひゃくみだんす》を調べてお目にかけるから――
 道庵先生は、自分の頭の中の百味箪笥をひっくり返して、しきりに調べにかかったが、結局、ドコかでその大衆という文字を見たことがあるように思いました。
 尚書ではなし、礼記ではなし、四書五経のうちには、大衆という文字はねえ……してみると、諸子百家、老荘、楊墨、孟子、その辺にも大衆という文字は覚えがねえが……でも、どこかで見たようだ。左伝か、荀子《じゅんし》か……
 実によけいな心配をしたもので、お手前物の百味箪笥の引出しをいちいちあけて、薬を調べるような心持で、僅か大衆の一句のために、道庵先生が苦心惨憺《くしんさんたん》をはじめました。
 宇治山田の米友においては、一向、そんなことは苦にしていない。
 彼は精悍な面魂《つらだましい》をして、多田嘉助が睨み曲げたという松本城の天守閣を横に睨み、
「何が何でえ、ばかにしてやがら」
という表情で、松本平の山河をあとにして歩みました。
 したが、しばらくあって、何に興を催したか、宇治山田の米友が、松本の町はずれで、ふと大きな声を出して、
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十七姫御が旅に立つ
それを殿御が聞きつけて
とまれとまれと袖をひく
それでとまらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿
明日は吉日、日もよいで
産土参《うぶすなまい》りをしましょうか
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 宇治山田の米友が唄をうたい出したので、驚かされたのは道庵先生です。
「友様、お前も、唄をうたうのかい」
 大衆の空想も、なにもすっかり忘れて、道庵が驚嘆しました。

         二十四

 中房の温泉についた宇津木兵馬は、とりあえず宿について、様子を見たけれど、これぞと心当りの者もない。
 一軒
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