うとするから、
「まあ、お待ちなさい」
兵馬は脚絆《きゃはん》を結びながら、呼び留める。
「ほんとに、あなた様なればこそ、こんなに御親切にして下さいました、ほかのお方でしたら、わたしはどんな目に逢っていたかわかりません」
「いや、それがかえって仇《あだ》となるようでは、お互いに困るから、気をつけて帰り給え、君の旦那というのが、非常に腹を立っているそうだ」
「そうかも知れません」
「ただいま、浴槽《ゆぶね》で聞いたのだが、昨晩は君の姿が見えないために、総出で探し、どうしてもわからないから、君は駈落《かけおち》をしてしまったものときめているらしい」
「え……?」
「だから、そのつもりでお帰りなさい、事がむずかしければ、拙者が行って、証人に立って上げるから……」
「そうかも知れません。そうだとすれば、わたしは、ヒドい目に逢わなければならないかも知れません。ああ、どうしたらいいでしょう。でも、帰らなけりゃならないわ」
「もし、事が面倒になったら、お知らせなさい」
驚きあわてて出て行く芸者の後ろ姿を見て、兵馬は笑止《しょうし》の至りに堪えません。
そこで兵馬は、早立ちをすべきはずのを、わざとゆっくり構え込んで、朝飯を食べました。
何か苦情が起った際には、あの女のために、証人に立つべき義務があると思ったからです。
しかし、幸い、別に問題は起らないと見えて、出て行ったきり、音も沙汰もありませんから、話というものは、すべて大仰なものだ、噂《うわさ》によると、あの旦那なるものは、生かすの、殺すのと、騒ぎ兼ねまじき話であったが、なんの、ことなく納まったところで見ると、すべて、女にのぼせる男というほどのものは、のろい[#「のろい」に傍点]者で、女が眼前へ現われて、泣いたり、あやまったりしようものなら、忽《たちま》ち軟化してしまう。その旦那なるものも、忽ちぐんなりと納まったのだろう。それならば結句仕合せであると思いました。
兵馬は、そのあられもなき艶罪《えんざい》をおそれていたのは、以前紀州の竜神でも、そんなことから、痛くもない腹をさぐられた経験があるので、いささか取越し苦労が過ぎたもののように感じながら、食事を済ましてしまいました。そうして、無事に浅間の宿を立ち出で、松本の市中に入ると間もなく、兵馬は、仏頂寺弥助と、丸山勇仙とが、勢いよく談笑しながらやって来るのを遠くから認めて、場合が悪いと思いました。
ここで見つかってはまずいと思ったものですから、知らない顔で、やり過ごしてしまおうと、自分は道の右側を小さくなって通ると、幸いに、仏頂寺も、丸山も、談笑の方に気を取られて、兵馬あることに気がつかず、難なくやり過ごしてしまいました。
やれ、安心と兵馬は、やり過ごして暫くしてから見送ると、仏頂寺は兎、丸山は雉子《きじ》を携えていました。
あの連中、どこぞ押しかけ客に行って、みやげ物をもらって、早朝から御機嫌よく帰るところを見ると、その到着先は浅間の宿にきまっている。いいことをした。出立が、もう少し遅れようものならば、あの連中につかまって迷惑をするのだったに、まあよかったと思いましたが、同時に、昨晩帰ってくれないでなおよかったとも思います。
昨晩、もし仏頂寺、丸山らがいあわせたところへ、あの女が飛び込んで来たならば、事は無事に納まらないと思い来《きた》ると、兵馬は怖れて、かえってあの女のために、幸運を賀するような気持になります。
全く、その通り。かりに二人がいたところへ、あの闖入者《ちんにゅうしゃ》があったとしたら、そうして、あの女が、あのわがままを働いたとしたらどうだろう。
もしまた兵馬がいないで、仏頂寺と、丸山だけがいる座敷へ、あの女が飛び込んでしまったらどうだろう。
それは想像するまでもない。自分の寝床を明けて女に与え、自分は畳の上に寝て一夜を明かすというような寛容な光景が見られるものか、見られないものか。
鴨が葱《ねぎ》を背負って飛び込んで来たようなもので、二人のために、うまうまと食われてしまうのは、眼に見えている。
あれで済んだのは、自分のためにも、ことに女のためにはドレほど幸運であったか知れないと、兵馬は、二人の後ろ影を見送りながら、気まぐれな、酔っぱらい芸者のために、心ひそかに祝福しました。
行き行きて、町のとある辻まで来た時分、そこに一つの立札があるのを認め、兵馬が近寄って、それを眺めると、
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「信濃国温泉案内」
[#ここで字下げ終わり]
とあって、松本を中心としての、各地の温泉場までの里程、道筋が、絵図まで添えて、かかげてある。
時にとっての好《よ》き道しるべと、兵馬は余の方面はさておき、自分の目的地方面をたどると、はしなくもそこに一つの迷いが起りました。
わが行手にあたって、同じ
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