く西の方の大山脈のふところに、少なくとも二つの主なる温泉がある。
右なるは、現在目的とする中房の温泉。
左なるは「白骨」と書いてある。
兵馬はそれを、ひとたびはシラホネと読み、再びはハッコツと読みました。
二十一
案の如く仏頂寺、丸山の二人は、宇津木兵馬が立去ってしまったあとの、同じ座敷へ帰って来ました。
そこで、机の上にあった兵馬の置手紙を見て、はアとうなずいたきりで、深くは念頭にとめず、やがて、御持参の雉子《きじ》で酒を飲みはじめたようです。
この連中は、人生の離合集散も、哀別離苦も、さのみ問題にはしていない。きょうあって、あすはなき命と、覚悟はきまっている、そうして、あすは鴉《からす》がかッかじるべえ、ともいわない。感傷がましい言葉が、あえて彼等の口の端《は》に上るということを知らないほど、無感覚に出来ているらしい。
ところが、ここに一つの悪いことは、兵馬の取越し苦労が、この時分になって漸《ようや》く利《き》き目を見せたことで、利き目の見えた時分は、相手が悪くなっていました。
仏頂寺と、丸山とが、こうして仲むつまじく、一つ鍋を突ッつき合っているところへ、喧嘩を売りに来た奴があるのだからたまらない。
「まっぴら、御免なせえまし」
というすご味を利かせたつもりなのが、目白押しになって、不意に押しかけて来ました。
「ナ、ナンダ?」
と鍋の中へ箸《はし》を半分入れながら、仏頂寺弥助が睨《にら》み返すと、
「旦那方、御冗談《ごじょうだん》もいいかげんになすっていただきてえもんでございます」
そいつらがズカズカとはいって来て、膝ッ小僧をズラリと、仏頂寺、丸山の前へ並べたものですから、なんじょうたまるべき、
「何が、どうした!」
「御冗談もいいかげんになすっていただきてえもんでございます」
「何が、何だと!」
「へへへへ、ごじょうだんもいいかげんになすっていただきてえもんで。そんなこわい目をしたって、驚く兄さんとは兄さんが違いますよ、旦那方!」
「何が、何だ!」
仏頂寺が、こぶしを膝において向き直る。丸山勇仙も肉をパクつきながら、途方もない奴等が舞い込んだものだと思いました。だが、いっこう両人ともに、事の仔細がわからない。
こいつ、あの芝居の場の狼狽《ろうばい》を根に持つ奴が、ならず者を廻したのだろう……と一時はそうも思いましたが、それとは、少しどうも呼吸《いき》が違うようだ。
そこで、仏頂寺ほどの豪傑も、まず手が出ないで、何が何だと、煙《けむ》にまかれたような有様でいると、
「おトボけなすっちゃいけねえ、人の大切《だいじ》の玉を、さんざんおもちゃにしておいてからに……」
と並べた膝ッ小僧を、一斉に前へ進めるものですから、仏頂寺弥助が、
「誰が、玉をおもちゃにしたというのだ。いったい、貴様たち、断わりもなく他人の室へ闖入《ちんにゅう》して、その物のいいザマは何だ」
と言いながら、箸をおいて火箸を取ると、鍋の下にカンカンおこっている堅炭の火を一つハサんで、いきなり、それを一番前へ乗り出していた膝ッ小僧へ、ジリリと押ッつけたものだから、
「あつ、つ、つつ……!」
その奴《やっこ》さんが、ハネ上って熱がりました。で、その騒ぎの納まらないうちに、仏頂寺は、
「こいつも、少し出過ぎてる!」
といって、もう一人並んでいた奴さんの、今度は膝ッ小僧ではなく、額のお凸《でこ》へその火を押ッつけたものだから、同じく、
「あ、つ、つ、つ、つ……」
といって、飛び上りました。
「この野郎、もう我慢ができねえ」
余の奴さん連が、仏頂寺をなぐりにかかるのを、仏頂寺は左の手で膝元へ取って押え、その腕をしっかり膝の下へ敷き、片手では例の堅炭の火を取って、その奴さんの小びんの上へおくと、毛と、皮とが、ジリジリと焦《こ》げてくる。
「あ、つ、つ、つ、つ……!」
これは動きが取れないから、焼穴が出来るでしょう。
そこで、宿の亭主が飛んで出るの幕となりました。
何はトモあれ、取押えられている者のためにおわびをして、執りなしをして、助けておいてからのこと。
亭主が口を尽してわびるので、仏頂寺は、焼穴をつくるだけは見合せて、火箸を灰の中に突込み、
「亭主、よく聞きなさい、われわれ二人は昨晩、城下のあるところへよばれて御馳走になり、今朝戻って、この座敷で二人水入らずに酒を飲んでいるところへ、こいつらが、いきなり闖入《ちんにゅう》して来て、われわれの前へ、その薄ぎたない膝ッ小僧を並べるのだ……いったい、こいつらは何者で、何しに来たのだか一向わからん。また、こいつらの言うことが、ガヤガヤ騒々しいばかりで、何を言っているのか一向わからん……ただ、無暗にこの薄汚ない膝ッ小僧を、せっかくわれわれがうまく酒を飲んでいる眼の前へ突き出す
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