わざ障子をあけて、その図抜けた唄の主の首実検《くびじっけん》をしなければならないほどに聞き慣れた声でもありませんでしたから、これにも一種異様のおかしさをこらえて、そのままおのが座敷の方へと足を進ませてしまいました。
兵馬が驚き、また何となしに記憶を呼び起され、ついに一種異様のおかしさを感ぜしめられたのも道理、この声の主こそは、すなわち有名なる道庵先生でありましたのです。
ですから、もう少し何とかすれば、兵馬も、先生に顔を合わせることができて、お互いに知らない間柄でもないから、これはこれはと、額に手をおいて、それからお互いに、多少実になる話があったかも知れません。
もとより、道庵先生も、そのことは知るに由なく、今や蒲団《ふとん》の中に仰向けになって、起きもやらず大声で、ただいまの、「ヤレ出た、鬼熊」をやり出したのであります。
ここに道庵先生が呼ぶ「鬼熊」というのは、大正昭和の頃、千葉県なにがし村に出没した悪漢をさしたのでないことは無論、また道庵先生自身の頭が、タガというものがゆるみきって、底知れずにダラけきってしまったものだから、ついこんなことを口走るようになったというわけでもなく、別にその時代にも、鬼熊という名物が確かに存在していたのであります。
それを嘘だと思うものは、当代の鬼熊が活躍した、その同じ千葉県の成田の不動堂へ行ってごらんなさるとわかります。かしこには立派に、その時代の鬼熊の額がかけてある。
その時代の鬼熊は、現代の鬼熊のように兇暴ではなかったが、力量はたしかに、現代の鬼熊以上でありました。
これは、今日でも実見した人があるかも知れない。
神田鎌倉河岸の豊島屋の「樽転《たるころ》」から出た鬼熊は、何代目とつづいて、酒樽をてまりの如く取って、曲持《きょくも》ち、曲差《きょくさ》しを試むる。
「新し橋」の附近には、「何貫何百目何代鬼熊|指《さす》」とほった大石がころがっていたはず。醤油樽《しょうゆだる》一つずつを左右の手にさげ、四斗樽を一つずつ左右の足にはいて、この鬼熊が、柳原の土手を歩いたことがある――見るほどの人が、その樽を空《から》だろうと疑って調べてみると、空どころではない、豊醸《ほうじょう》の新味が充実しきっている。力持の見世物に出ても、鬼熊が大関でありました。
道庵先生が、ヤレ出た鬼熊、ソレ出た鬼熊、そっちを突ッつけ、こっちを突ッつけ、また出た鬼熊――との蒲団の中から首を出して騒いでいるのは、その鬼熊が、こちらへ興行に来たのかも知れない。それを聞流しにして、おのれが部屋に戻った宇津木兵馬。
例の女はまだよく寝ている。眼をさまさせないように、充分寝るだけ寝させておくように、兵馬はなるべく音を立てないで、出立の身仕度にかかりました。
しかし、兵馬のこの心づかいも忽《たちま》ち無駄になってしまい、女ははからず目をさましました。
目をさました当座は何でもなかったが、枕ざわりが変だと、それから気がついたのでしょう、急に飛び起きて、
「あら!」
その驚き加減というものはありません。
これは気の毒なことをした、と兵馬をしてヒヤリとさせたほどです。
「まあ、わたし、どうしましょう?」
飛び起きて、そこに脚絆《きゃはん》をつけているところの兵馬を見る。
「まあ、どうして、わたし、こんなところへ来てしまったのでしょう?」
「ハハハハ……」
と兵馬が笑う。女は笑うどころではない、唇まで蒼《あお》くなっている。
「御免下さいまし、ほんとうに済みません」
「いや、いいですよ、ごゆっくりお休みなさいまし」
「存じませんものですから……」
女は飛び起きて、なりふりを直しにかかると、兵馬は、
「みんな、大へん心配したそうですよ」
「ああ、わたしとしたことが……つい酔ったものですから、あなた様にも、どんな失礼をしたかわかりません」
「不意にここへ君が来たものだから、多分、部屋違いだろうと思って、帰るように忠告したのだが、君がきかない」
「ああ、悪うございました」
「君がきかないでいるうちに、ここへ、この畳の上へ寝込んでしまうから、見兼ねて、拙者が起しに来ると、早くも拙者の寝床を奪って、君が寝てしまった」
「済みません、済みません」
「その時、無理にでも起せば起すのだったが、それほど眠いものをと気の毒に存じ、そのままにして、君をそこへ寝かしておいて、拙者はここへゴロ寝をしてしまったよ」
「ま、何という失礼なことでしょう、これというのもお酒のせいです、もう、わたし、これからお酒をやめます、一滴もいただきませんから、どうぞ御勘弁下さいまし」
「酒は、やめた方がいいな……」
「のちほど、またお礼に出ますから……」
と、なりふりを直した女は、蒼《あお》くなって恐れ入ったり、恥入ったり、ほとんど前後も忘れて、駈け出そ
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