まだ暗いうちに浴室まで出かけました。
 ところが、その浴室には、もう朝湯の客が幾人かあって、口々に話をしている。
 それを兵馬が聞くと、意外でした。
 その浴客らの噂《うわさ》は、昨晩、芸者の駈落《かけおち》ということで持切りです。
 はてな、と兵馬が気味悪く思いました。
 聞いていると、松太郎という江戸生れの芸者が、昨晩、急に姿を隠してしまったということ。
 宵のうちは手古舞に出て、夜中過ぎまでお客様と飲んでいたのを見たということだから、逃げたのなら、それから後のことだという。
 そこで兵馬が思い当ることあって、なお、その噂に耳を傾けていると、その芸者の身の上やら、想像やら。
 その言うところによると、松太郎は江戸の生れで、この地へつれて来られたのは二三年前であったとのこと。
 旦那があって、自由にならなかったということ。
 それで、少し自暴《やけ》の気味があって、お客を眼中に置かないような振舞が度々《たびたび》あったが、旦那というのは、それの御機嫌をとるようにしていたということ。
 こっちへ来るまでには、相当の事情があったのだろうが、来た以上は、当人も往生しなければならないと知って、わがままではあったが、お客扱いは悪くはないから、熱くなっているものが、二人や三人ではなかったということ。
 それでもまだ、旦那のほかに、男狂いをしたという評判は聞かない。
 だから、今度のも男と逃げたのではあるまい、土地がイヤになって、江戸が恋しくなったのだろうという想像。
 いや、旦那というのが、しつこくて、わからず屋で、その上に焼き手ときているので、それで松太郎がいや気がさしたのだろうという。
 そうではない、それほどのわからずやでもない、かなり鷹揚《おうよう》なところもあって、松太郎も何か恩義を感じていたと見え――松太郎自身も、近いうちにこの稼業《かぎょう》をやめて、本当のおかみさんになるのだ、とふれていたこともあるのだから、まんざらではあるまい。嫌って逃げたわけでもあるまい。しかし、ああいった女は当てになるものじゃない。とうの昔に、男が来て、しめし合わせておいて、ゆうべのドサクサまぎれに、首尾よく手を取って逃げたのだろう――その男の顔が見てやりたい、土地の者じゃあるまい、江戸の色男だろう――と、指をくわえる者もある。
 そこへ三助がはいって来て、旦那なるものの噂《うわさ》になると、兵馬をして全く失笑せしめる。
 ゆうべ、女に逃げられたと気がついた旦那なるものの、血眼《ちまなこ》になって、あわて出した挙動というものが、三助の口によって、本気の沙汰《さた》に聞えたり、冷かしにされたり、さんざんなものとなる。
 ははあ、眠るということは大した魔力だ。白隠和尚は船の中で眠って、九死一生の難船を知らなかったというが、自分は眠ってしまったから、昨晩あれからその旦那なるものの、うろたえ加減、血迷い加減、また上を下へと、その逃亡芸者を探しまわった人たちの狂奔《きょうほん》というものを、全く知らなかった。
 聞くところによると、その旦那なるものは、半狂乱の体《てい》で、自分が先に立ち、人を八方に走らせて、くだんの芸者の行方《ゆくえ》を探索させたのだそうな。お義理で、ここのうちの雇人たちも、朝まで寝られなかったとのこと。
 しかし、その結果は絶望で、可愛ゆい芸者の行方は、どうしてもわからない。
 手のうちの珠《たま》をとられた旦那というものの失望落胆は、ついに嫉妬邪推に変って、誰ぞ手引をして、逃がした奴があるに違いない、そうでなければ、これほど手際よく行くはずがない――見ていろ、と自暴酒《やけざけ》を飲んで、焦《じ》れているということ。
 兵馬は浴衣《ゆかた》を手に通しながら、苦笑いを禁ずることができません。

 兵馬は異様な心持で、浴室から自分の座敷へ帰ろうとするその廊下の途中で、また一つの座敷から起る噪音《そうおん》に、驚かされてしまいました。
 その座敷の中で、俄《にわ》かに唄《うた》をうたい出したものがあるのです。多分それは寝床の中にいて、宿酔のまださめやらない御苦労なしの出放題《でほうだい》だと思われますが、
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ヤレ出た、鬼熊
ソレ出た、鬼熊
そっちを突ッつけ
こっちを突ッつけ
そっちでいけなきゃ
こっちを突ッつけ
こっちでいけなきゃ
そっちを突ッつけ
ヤレ出た、鬼熊
ソレ出た、鬼熊
ヤレソレ、鬼熊
ドッコイ、キタコリャ
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 図抜けた声で唄い出したものがありましたから、通りかかった兵馬が、その声に驚かされたのです。しかし、兵馬は、ただ驚かされただけではなく、その早朝からばかばかしい図抜けた声に、何か聞覚えがあるように思われるのも、いっそう兵馬を驚かしたことに力があったかも知れません。
 さりとて、わざ
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