言って、女はまた寝込んでしまおうとするから、兵馬は荒々しく、
「しっかりし給え!」
 荒々しく、じゃけんに女を動かして、寝つかせないものだから、女もたまらなくなり、じれったそうに、
「意地が悪いねえ、こんなに眠いんだから、寝させたっていいじゃないの?」
 それをも頓着なしに、兵馬は、
「起きろ、起きろ!」
 ちっとも、惰眠《だみん》の隙を与えないものだから、女は、むっくりと起き上りました。
 ああ、気がついたか、世話を焼かせる女だ――と、やっと少し安心していると、起き上った女は、酔眼もうろう[#「もうろう」に傍点]として座敷の中をながめていたが、
「ああ眠い……」
と言って、脱兎《だっと》のように兵馬の寝床へもぐり込み、夜具をかぶってしまいました。
 ああ、これでは、また虎を山へ追い込んだようなものだ。
 ああ、手がつけられない! 兵馬も、うたた感心して、闖入者《ちんにゅうしゃ》というものの扱いにくいことを、今更しみじみと身に覚えたのでしょう。
 この闖入者は、食に飢えたのではない、眠りに飢えているのだ。色欲よりは食欲、食欲よりは睡眠欲が、人間に堪え難いと聞いた。
 自分の寝床へもぐり込まれてしまって、兵馬は、唖然として舌をまいたけれども、こうなってみると、かえっておかしくもあり、同情心も出て来るので、この上にいっそう荒々しく、夜具を引きめくって、女をつまみ出そう、という気にはなれません。
 かえって、まあ、寝るだけ寝させておいてやれ、という気になりました。
 兵馬には、人に同情し易《やす》い癖がある、癖というよりも、これは徳といってしかるべきものかも知れない。自分の足場のかたまらないうちに、他に対しての同情は禁物――とそれは兵馬も充分に心得ておりました。
 充分に心得ながら、ツイ吉原へ足が向くようになったのは、そもそもこの同情がいけなかったのだと、のぼせきっているうちにも、よくその理解はついておりました。
 今だって、そうです。
 酔っぱらいは嫌いである。男の酔っぱらいでさえ、醜態と思っている兵馬が、女の酔っぱらいというものを、この世における最も醜いものの一つに数えたいのは、あながち潔癖とばかりも言えますまい。
 だが、こうして、ころがり込んでみると、それをひっとらえて面罵《めんば》をこころみたり、たたき出したりするような気になれないことが、自分の弱味だと思わないでもない。人に言わせれば、相手が相手だから、それでのろい[#「のろい」に傍点]のだと笑うかも知れない。
 さて、女の酔っぱらいを醜態の極として、日ごろ、排斥《はいせき》はしていながら、こうして見ると、やはり一種の同情が、兵馬の胸には起るのを禁ずることができません。
 どのみち、こういった社会の女だから是非があるまい。自分が嫌いでも、客のすすめで飲ませられることもあるだろう。
 またなかには、酒でも飲んで心を荒《すさ》ましておかなければ、たまらない女もあるだろう。
 どのみち、好んでこういう社会に入りたがる女ばかりあるものではないから、ここに来るまでには、それぞれ相当の身の上を以て来たのだろうから、それをいちいち、きびしい世間の体面や礼儀で責めるのは、責めるものが酷である。
 むしろ、こうして、前後もわからないほどに酔っぱらって、人の座敷へころがり込み、人の寝床へもぐり込んで寝てしまうようなところに、たまらない可愛らしさがあるではないか――世間の娘や、令嬢たちに、こんな振舞をしろといってもできまい。それを平気でやり通すようになっているところに、無限のふびんさがあるではないか。
 奥深いところにいる――奥深いところでなくても、普通のいわゆる良家の女性には、どんなにしても、そうなれ近づくわけにはゆかないが、この種類の女に限って、いかなる男子をも近づけて、その翻弄《ほんろう》をさえ許すのである――その解放と、放縦《ほうじゅう》によって、救われなかった男性が幾人ある?
 兵馬は、この種類の女を憎いとは思わない。それは清純なる男子の、近づくべからざる種類のものであるとは教えられていながら、今までも、さのみ憎むべきゆえんを見出せなかった。
 だから、ここでも、その睡眠を奪う気にはなれず、よしよし、このまま寝るだけ寝かしておけ、寝るだけ寝たあとは、さめるまでのことだ。こよい一夜は、自分の寝床を犠牲にしたところで、功徳《くどく》にはならずとも、罰は当るまい。
 兵馬もこのごろは、世間を見ているから、それとなく粋を通すというような、ユトリが出来たのかも知れません。
 そこで女は寝るままに任せて、自分は荷物を枕に、合羽《かっぱ》を引きまとうて、火鉢のそばへ横になりました。

         二十

 夜が明けると、兵馬は早立ちのつもり。
 女はそのままにして置いて、出立してしまおうと、
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