知っています。
けれども、お松はこのごろになって、特に、そのわからないなりで誦している与八のお経の声を聞くと、妙に引き入れられて、われを忘れるのを不思議なりとしておりました。
今も、その与八の、わからない読経《どきょう》の声を聞いているうちに、何ともいえない心持で悲しくなりました。
悲しいといっても、その悲しいのは、やる瀬ない、たよりのない、息苦しい悲しみ、悶《もだ》えの心ではなく、身心そのままを、限りなき広い世界へうつされて行くような、甘い、楽しい、やわらかな色を包むの悲しみであります。
ああ、わたしはこの心持が好きだ、この悲しい心持が何ともいわれないと、お松はそれを喜びます。昼のうちは、現実の働きに、お松としては、ほとんど余暇のない今日この頃、その働くことに充分の喜びを以て、たるみのない生活を楽しむことができるのに、夜になると、全く別な世界に置かれたような気持で、この悲しみに浸ることのできる幸いを、感謝せずにはおられません。
お松はこうして、与八のわからないお経を聞くことの快感にひたされながら、ついぞ与八に向って、これを感謝したこともなく、またそれを、どうぞやめないで続けて下さい、とたのんだこともありません。わからないで読むお経を、わからないで聞いてこそ、それで有難味が一層深い。それを口に出していうのが、なんだか惜しいような気持がしてなりません。
なんにしても、このごろのお松の心では、犠牲が感謝であり、奉仕がよろこびであり、忍辱が滅罪であることの安立が、それとはなしに積まれているようであります。
与八としても、ほぼお松と同様で、平淡なるほど自分の立場の堅実を、感ぜずにはおられないと見えます。
人が自分の立場の堅実を感ずるのは、必ずしも財産が出来たから、名誉が高くなったから、というのではありません。自分を打込んで、他のために尽し得るという自信が立ち、その道が開けた時に、はじめて起るのであります。
おのれを放捨して、絶対愛他の生活に一歩進み入る時に、人は一歩だけその立場の堅実を感ぜずにはおられますまい。言葉を換えていえば、我慾を増長せしめた瞬間にこそ、人は自己の立場に不安を感じ、報謝の志を起した時に、はじめて自己の立場の堅実を悟るということが、逆に似て、順なる人生の妙味であります。
お松も、与八も、期せずして、その妙理を会得《えとく》せんとするのは祝すべきことでありますが、一生の事は必ずしも、そう単純には参らない。大悟十八遍、小悟その数を知らずと、東妙和尚もよくいうことでありますが、今のところは、ほとんど逆転の憂いがないと見なければなりません。
さればこそ与八のわからないお経も、ようやく妙境に入って、聞く人をしておのずから、神心を悦嘉《えつか》せしむるのかも知れません。
しかしながら、こんな悦楽が、人間世界の夜の全部を占領するのは、悪魔の世界のねたみを受けるには十分であると見え、暫くして、この悦楽の世界が、忽《たちま》ちにしてかきみだされたのは是非もないことでしょう。
「与八さん、エ、与八さん、エラク御精が出るじゃねえか、いいかげんにしなよ、いいかげんにして寝なよ、身体《からだ》も身のうちだ、そうひどく使うもんじゃねえよ、ちっとは、身体にも保養というものをさせてやらなけりゃ毒にならあな、いいかげんにしなよ、え、ヨッパさんたら、ヨッパさん」
経文を誦《ず》しながら藁《わら》を打っている与八の境涯をかき乱した声が、お松のところまで手に取るように聞えたものですから、お松もハッとして苦《にが》い心持になりました。
「いいかげんにしなよ、いいかげんにして、一ぺえ飲んで寝なよ……」
しつこく与八のそばへすりよって、とろんとした眼を据《す》えている酔いどれの姿を、ありありと見る気持。
「だが、与八さん、おめえは感心だよ、おめえの真似《まね》はできねえ……まあ、早い話がおめえは聖人だね、支那の丘《きゅう》という人と同格なんだね、聖人……大したもんだよ、だが、聖人にしちゃあおめえ、少し間《ま》が抜けてらあ……」
「なあに」
与八は相手にならないで、藁をすぐっているらしい。
「だが、おめえ、聖人なんて商売は、聞いて極楽、見て地獄さ」
与八が相手にならないでいると、一方は、いよいよしつこく、
「こちとら、やくざだから、聖人なんざあ有難くねえ」
といって暫く休み、いやに猫撫声《ねこなでごえ》で、
「ヨッパさん、おめえ済まねえが、いくらか持っていたら貸してくんねえか……」
お松はそれを聞いて、またはじまったと思いました。
梅屋敷の谷という船頭が、いつも、こんなことを言って与八をばかにしながら、いくらかせびりに来る。その度毎に与八が、ダニに食いつかれた芋虫《いもむし》のように窘窮《きんきゅう》するのを、ダニがいよいよ面
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