三

 一方、沢井の机の道場を、右の武者修行が立去って数日の後、雨が降りましたものですから、お松は蛇《じゃ》の目の傘をさして、川沿いの道を、対岸の和田へ行きました。
 お松が和田へ行くのは、今に始まったことではないが、このごろは、ほぼ一日おきのように和田へ行かなければなりません。
 というのは、和田の宇津木の道場が、机の道場と同じように廃物になっているのを、お松が新しく開いて、机の道場と同じように、学校をはじめたからであります。
 そこへ、多くの娘たちがあつまって、お松をお師匠さんとして、裁縫を学ぶべきものは学び、作法を習うべきものは習うように、一種の講習会を開いたのが縁で、その娘たちのうちの有志の者が力を合わせて、別にまた子供相手の寺子屋をはじめました。
 で、お松は、このごろは沢井の方と一日おきに往来するものですから、雨の降る日は傘をさし、足駄がけで、一里余の道を歩くことは珍しくはありません。
 おそらく、過日の武者修行が、裂石《さけいし》の雲峰寺で、炉辺《ろへん》の物語の種としたのは、途中、このお松の蛇の目姿にであって、それに潤色と、誇張とを加えたのかも知れません。
 しかし、お松のは、そういったような夢幻的の蛇の目の傘ではなく、また、お松自身も不美人ではないが、透きとおるような美人というよりは、もっと現実的な娘で、雨の日、途中で足駄の緒をきった時などは、足駄を片手にさげて、はだしでさっさと歩いて帰ることもあるくらいですから、白昼、蛇の目の傘を開いて、秋草の乱るる高原を、悠々閑々と歩むような気取り方をしないにきまっています。
 ただ、お松の行くところには、いつもムク犬がついて行くこと、その昔の間《あい》の山《やま》の歌をうたう娘の主従と変ることがありません。
 それにお松は、子供の時分から、旅の苦労を嘗《な》めて足が慣らされていますから、この多摩川沿いの山間《やまあい》や、沢伝いのかくし道を平気で歩いて、思いがけないところで出逢《でっくわ》す人を驚かすこともあり、この辺は古来、狼の名所とされているところで、今はそんなことはないにしても、人のかなりおそれる山道も、ムクがついている限り安心ですから、お松はかなり無理をしてまで、山々の炭焼小屋までおとずれ、そこに住む子供たちに、お手本を書いて与えて来ることなどもあるのです。
 それですから、いよいよ過ぐる日の武者修行も、思わざる所で、ひょっこりとお松の出現に驚き、それを大菩薩峠の上に移して、話に花を咲かせたと見れば見られないこともありません。
 そういった場合、お松自身には、そんなきどり方はないとしても、こういった山里で、ひとたびは京の水にもしみ、ひとたびは御殿づとめもした覚えのある妙齢の娘が、不意に、木の間、谷間から現われ出でた時は、少なからぬ驚異を誘うのも無理のないことであります。
 そんなところからお松の生活を見れば、詩にもなり、絵にもなりましょうが、お松自身にとっては、この頃ほど自分の現在というものに、喜びを感じていることはありません。
 人の現在を喜ぶのは、多くの場合、過去の経験を忘れ、未来の希望を捨てた瞬間の陶酔に過ぎない浅薄な喜びになり易《やす》いが、お松のは、たしかにそうでなく、もはや、自分の立つ地盤の上に、この上のゆらぎは来ないだろうと思われるほど、自分ながら堅実を感ずるの喜びでありました。
 人生、喜びを感じない人はあるまいが、またその喜びの裏に、不安を感じないという人もありますまい。
 喜びが大きければ大きいほど、後の不安が予想される喜びに住みたくはないものです。
 お松は、自分の生涯が、もうこれで定まったとも感じません。これより後の前途は、平々淡々なりとも安んじてはいないが、少なくともこの道路に、これより以上の陥没はない、これよりは地を踏みしめて行くだけが、自分の仕事である――というような心強さは、ひしと感じています。

 夜になると、お松は夜ふくるまで針仕事をしていることがあります。
 道場の方で藁《わら》を打つ音。それと共に縷々《るる》として糸を引くような、文句は聞き取れないながら断続した音律。お松は針先を髪の毛でしめしながら、
「また、与八さんがお経をはじめた」
 与八が東妙和尚からお経を教えられて、しきりにそれを誦《ず》しているのは、今に始まったことではありません。
 それは何のお経だか、与八自身も知らないはずです。或る時、東妙和尚に尋ねてみたら、和尚のいうことには、
「お経はわからないで読んでこそ有難味がある、ただ、有難いという有難さをみんな集めたのが、このお経だと思って読みさえすればよい、お経がわかると、有難味がわからなくなる」
 そう言われたから与八は、言われた通りに信じて、わからないなりに誦していることを、お松はよく
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