はずはありますまい。
金椎《キンツイ》がいるにしても、あれは、よし眼がさめていたとて、声では驚かされるものではない。
娘にとっては、かなり危急な場合ではあるが、万事、人間のすることはそう手っ取り早くゆくものではない。猫ですらが、鼠をとった時は、一通りその功名を誇ってから後に食いにかかる。仮りにこのウスノロ氏が、思い設けぬ御馳走にありついたとしたところで、食の後には酒、酒の後には若い女と、こう順序があまりトントン拍子に運び過ぎてみると、なんだか自分ながら、果報のほどに恐ろしくもなるだろう。
まして、これは最初から、兇暴な野心を微塵《みじん》も持って来たのではない。かりそめの漂浪者であってみれば、その咄嗟《とっさ》の間に、兇暴性を充分働かせるだけの器量があるとも思えない。
要するにウスノロ氏は、ウスノロ氏だけのことしかしでかし得ないものだろうから、こういう場合に処するには、また処するだけの道があったろうと思われる。落着いてその道を講ずる余裕を失って、狼狽《ろうばい》してことを乱すと、かえって相手の兇暴性をそそり、敵に乗ぜらるるの結果を生むかも知れない。
恐怖が、この娘を狼狽させたが、狼狽から、いよいよ恐怖がわいて来た。
「行っておしまい、誰か来て下さい――」
二度《ふたたび》大声をあげると、娘は腰から下にかけていた毛布をとって、そのまま力を極めて大の男に投げつけたものですから、大の男がまた大あわてにあわてて、その毛布を取除こうとして、かえって深くかぶり、一時は非常に狼狽したが、やがてそれを取払うと、娘が、
「誰か来て下さい――」
四たび叫びを立てたものですから、大の男が堪《たま》らなくなって、その口をおさえました。口をおさえるにはまず右の腕をのばして、軽々と自分の胸のところまで引きつけて、そこで口をおさえると、娘が、両足をジタバタとさせてもがき[#「もがき」に傍点]ました。
こうなった時に、ウスノロ氏に、はじめて本能的の兇暴性がグングンと芽をのばしたように、
「あれ誰か来て――」
その声を、今度は鬚面《ひげづら》でおさえてしまいました。
大の男はそこで、娘の顔に向って、メチャメチャに接吻《せっぷん》を浴せかけようとする。娘はそうはさせまいと争い且つ叫ぶ。
十六
しかし、人生は、そう無限に闖入者《ちんにゅうしゃ》にのみ兇暴性をたくましうさせるの舞台ではない。
無用心ではあるが、無人島ではないこの住居へ、いつまで人間らしい人間の影を見せないということはあるべき道理ではない。
駒井甚三郎が画框《がわく》をかかえ、田山白雲がジャガタラいも[#「いも」に傍点]を携えて、悠々閑々と門内へ立戻って来たのが、その時刻でありました。
白雲は料理場へジャガタラいも[#「いも」に傍点]をほうり込んで、駒井の手から框を受取って、廊下の追分のところまで来た時分に、駒井の寝室がこの騒ぎです。
「誰か来て下さい――」
それと混乱して、一種聞き慣れない野獣性を帯びた声。
二人は、ハッと色めいて、宙を飛ぶが如くに例の寝室まで来て見ると、この有様ですから、無二無三に、
「この野郎!」
腕自慢の田山白雲は、後ろから大の男を引きずり出して、やにわに拳《こぶし》をあげて二つ三つ食らわせましたが、それにも足りないで、倒れているのをのしかかって、続けざまにこぶしの雨を降らせたものです。
と同時に、大の男が泣き叫んで哀れみを乞《こ》うの体《てい》。それも言葉がわかれば、多少の諒解《りょうかい》も、同情も、出たかも知れないが、何をいうにもチイチイパアで、ただ締りなく泣き叫ぶのを、田山白雲が、この毛唐《けとう》! ふざけやがって、という気になって、少しの容赦もなく、いよいよ強く続け打ちに打ちました。
よし、言葉がわからずとも、憎いやつであろうとも、体格が貧弱で、打つに打ち甲斐《がい》のないようなやつでもあれば、白雲もいいかげんにして、打つのをやめたかも知れないが、何をいうにも体格は自分より遥かに大きいから、打つにも打ち甲斐があると思って、容赦なく打ったものでしょう。
駒井甚三郎さえも、もうそのくらいで許してやれ、と言いたくなるほど打ちのめしているうちに、どうしたものか、今まで哀訴嘆願の声だったウスノロの声が、にわかに変じて、怒号叫喚の声と変りました。
それと同時に、必死の力を極めてはね起きようとするから、田山白雲がまた勃然《ぼつぜん》と怒りを発し、おさえつけてブンなぐる。
それをウスノロが必死になってはね起きると、かなりの地力《じりき》を持っていると見えて、とうとうはね起きてしまい、はね起きると共に、力を極めて田山白雲を突き飛ばして逃げ出しました。
いったん突き飛ばされた白雲は、こいつ、生意気に味をやる――と歯がみ
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