をしながらウスノロのあとを追いかける。
 見ていた駒井は、これは白雲が少しやり過ぎる。あいつも、あのままでは打ち殺されると思ったから、必死の力を揮《ふる》って逃げ出したのだろう、へた[#「へた」に傍点]なことをして怪我でもさせてはつまらない――と心配はしたけれども、仲裁のすきがありませんものでしたから、ぜひなく、二人の先途を見とどけようとして、そのあとを追いました。
 本来、田山白雲は、その風采《ふうさい》を見て、誰でも画家だと信ずるものはないように、筋骨が尋常ならぬ上に、武術もなかなかやり、ことに喧嘩にかけては、相手を嫌わぬしれ者[#「しれ者」に傍点]でありましたから、こういう場合に、じっとしておられるわけがない。
 ことに、いったん取押えたやつにはね起きられて、突き飛ばされて、逃げられたというのが、しゃくにさわったものらしい。
 そこで、廊下を追いつめて来たところが、例の食堂で、ここへ来ると、いつのまにか、料理場へ通う戸が締切られてあったものだから、大の男が逃げ場を失いました。
 逃げ場がなくなったものですから、絶体絶命で大の男は、その戸じまりの前に立って、何とも名状し難い妙な身構えをしました。
 そこへ田山白雲が追いかけて来て、その身構えを見て、あきれ返りました。
 これは窮鼠《きゅうそ》猫をかむという東洋の古い諺《ことわざ》そっくりで、狼狽《ろうばい》のあまりとはいえ、あの身構えのザマは何だと、白雲は冷笑しながら近づいて行って、その首筋を取って引落そうとする途端を、どう間違ったのか、その名状し難い妙な身構えから、両わきにかい込んだ拳《こぶし》が、電火の如く飛びだして、白雲の首からあごへかけて、したたかになぐりつけたものですから、不意を食《くら》った白雲がタジタジとなるところを、すかさず第二撃。
 さすがの白雲がそれに堪らず、地響きを立てて床の上へ、打ち倒されてしまいました。
 起き上った時の白雲は、烈火の如く怒りました。
 だが、最初にばかにしたあの変な身構えの怖るべきことを、この時は気がついたようです。変な身構えが怖ろしいのではない、あの変な身ぶりから飛びだす拳の力が、怖ろしいのだとさとりました。
 だから、こいつ、何か術を心得ていやがるなと感づいたのも、その時で、そう無茶には近寄れない、強引《ごういん》にやれないと、気がつきながら起き上って見ると、まだ逃げることも、廻り込むゆとりもない大の男は、同じような変な身構え――それを言ってみると、身体《からだ》の半分を屈して、眼を皿のようにし、両方の拳をわきの下へ持って来て、そのこぶしをしかと握ったところは、たとえば、柳生流の柔術でいえば、乳の上、乳の下の構えというのに似て、組むためではなく、突くためか、打つためか、或いは払うための構えだと見て取りました。
 毛唐《けとう》の社会には、こんな手があるのか知ら。しかし、油断して、タカをくくっていたとは言いながら、あのこぶしの一撃でよろめかされ、二撃で完全に打ち倒されてしまったのだから、白雲が、歯がみをするのも無理はない。
 今で考えると、この大の男が取っている身構えは、拳闘をする時の身構えであって、この男は相当に拳闘を心得ていて、自分の危急のあまり、その手で白雲を打ち倒したものだから、決して無茶をやったわけでもなく、力ずくで振り飛ばしたわけでもない。先方はつまり、習い覚えた正当の格によって応戦して来たのを、こちらが無茶に、不用意に、近づいたから不覚を取ったものに違いない。
 前にもいう通り、田山白雲は画家に似合わず屈強な体格であり、兼ねて武術のたしなみがあり、なかなかの膂力《りょりょく》があって、酒を飲んで興たけなわなる時は、神祇組《じんぎぐみ》でも、白柄組《しらつかぐみ》でも、向うに廻して喧嘩を辞せぬ勇気があり、また喧嘩にかけては、ほとんど無敵――というよりは、その蛮勇を怖れて、相手になり手がないというほどに売込んでいるから、自分もその方面にかけては、十分の自信がある。
 絵筆をにぎる人が喧嘩を商売にするのは、どうも釣合わないことのようですが、本来、田山白雲は、絵師たるべく絵師となったのではない。慷慨《こうがい》の気節もあり、縦横の奇才もないではないが、何をいうにも小藩の、小禄の家に生れたものだから、その生活の足し前として絵画を習い出したので、もとより好きな道でもあるが……この点は、三州の渡辺崋山にも似ている。
 そこで白雲は、喧嘩が本業だか、絵が本業だか、わからないことがある。どこへ行っても画家とは見られないで、武者修行と見られることの方が多い。

 ここにおいて白雲は勃然《ぼつぜん》として怒り、この毛唐味なまねをやる、そんならばひとつ、天真神揚流の奥の手を出して……と本気になってかかりました。
 第一に、あの拳を避けて取
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