落そうとして、やっと食いとめながら眼をまるくして、室の一方を見つめます。
 寝台の上に半分ばかり毛布をかけて、一人の若い女が寝ていました。
 よく眠る家だとでも思ったのでしょう。前の少年は仮睡であるが、これはとにかく、休むつもりで寝台の上にいる――だが病人ではない、こうして、日中も身を横たえておらねばならぬほどの病人とは思えない。それほどにはやつれが見えない。あたりまえの若い娘、ことになかなかの美人である。それと、ねまきを着ているわけではないのだが、これは本式に寝台に横たわっているとはいえ、やはりうたた寝の種類に違いない。
 そうしてみると、この国は、よくうたた寝をする国である。毎日一定の時間には、必ず一定の昼寝をするように定められているのか知らん、と、闖入者《ちんにゅうしゃ》は疑ったのではあるまい。思いがけないところに、思いがけない異性を発見したものだから、その好奇心が、極度に眩惑されてしまったものと見える。
 だが、好奇心というものは、もとより事を好むものであります。事がなければ、そのまま消滅してしまうものですが、事がありさえすれば、いよいよ増長して、ついに、罪悪の域まで行かなければとどまらないものであります。それを引きとどめるのに、自制心《コントロール》がある。それを奨励するものに、アルコールがある。
 今や、このウスノロ氏には、自制心が眼を閉じて、アルコールが活躍している時だからたまりません。
「エヘヘヘ……」
と忽《たちま》ち薄気味の悪いえみを催しながら、おもむろにこの寝台へ近づいてみました。
 この際、美しい女でなくとも、単に異性でありさえすれば、好奇心を誘惑するには十二分でありますが、不幸にして、寝台の上なる女は、浮世絵の黄金時代に見る面影《おもかげ》を備えた美しい女でありました。
 多分、碧《あお》い眼で見ても、美しい女は美しく見えるだろうと思う。
 ウスノロ氏が、ニヤリニヤリと笑いながら、いよいよ近く寝台に寄って来るのを、軽いいびきを立てている当の主《ぬし》は、いっこうさとろうとはしません。
 それに、この時はどういうものか、金椎《キンツイ》を驚かさないように、あの室で食事をした以上の慎重さを以て、徐々《そろそろ》と近づいて行き、やがて、寝台の欄《てすり》のところへすれすれになるまで来ても、じっと娘の顔を見たままで、ほとんど手放しで涎《よだれ》を流すような有様で、島田に結った髪がかなり乱れて、着物の襟はよくキチンと合っていたが、鬢《びん》の下へ折りまげた二の腕が、ほとんどあらわになって、しかし、幸いなことに、帯から下はズッと毛布が守っているものですから、いわば、半身の油絵を見せられるような女の姿に見とれている。
 そのまま突立っていたウスノロ氏が、どうしたのか、急に呼吸がハズんでくると、その眼の色まで変りかけてきました。
 碧《あお》い眼玉は、別に変りようがあるまいと思われるのに、たしかに眼の色も変り、顔の色も変り、ついにはワナワナとふるえ出したもののようにも見える。
「茂ちゃん、いたずらしちゃいやよ」
 その時、女がうわごとのように言いました。
「いやよ、いけないよ、茂ちゃん」
 女は再び言って、まだ眠りからさめないで、手で顔の上を払いながら、
「いやだってば、茂ちゃん」
 ウスノロ氏は指を出して、娘の頬を二三度突ッついてみたものだから、
「茂ちゃん、いやだってばよ」
 女は四たびめに、手で自分の頬先を払って、ようやく眼をあいて見て驚きました。
「あ!」
 それは茂ちゃんではない、全く茂ちゃんとは似もつかない――似ないといっても、想像以上の、髪の毛のモジャモジャな、眼の碧い、鼻の尖《とが》った、ひげの赤い、服の破れた大の男が、今しも自分を上から圧迫するようにのぞき込んで、棒のような指で、自分の頬をつついているのを見ると、
「いけない!」
 娘はパッとはね起きると、大の男が口早に何か言いました。
 何か言ったけれども、それは娘にはわからない。恐怖心でわからないのではなく、言った言葉そのものの音がわからない。
「お前は誰だい、あっちへ行っておいで、誰にことわってここへ来たの、あっちへ行っておいで――」
 娘は叱りながら、扉の方をさして、立退きを命ずるほどの勇気がある。
 そこで大の男がまたチイチイ、パアパアいう。けれども、何のことだかそれが聞き取れない。また聞き取ってやる必要もない。他の寝室へ闖入《ちんにゅう》して、異性に戯《たわむ》れんとするは、狼藉《ろうぜき》中の狼藉である。容赦と、弁解とを、聞き入るべき余地あるものではない。
「あっちへおいでなさいといったら、おいでなさい――人を呼びますよ、誰か来て下さい!」
 娘はついにかなり大きな声を立てましたが、ここまで闖入者を許すほどの家だから、この声が有効になる
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