これは最初からの闖入者ではない。闖入する以前に、戸もたたいてみたし、何だかわからない言葉もかけてみたのですが、なにぶんの手答えがないために、こらえきれずして、最初は、極めて臆病に戸を押してみたが、ついにはかなり大胆な態度で、戸を押開き、家の中へ入って来ました。
それでも、計画ある闖入者《ちんにゅうしゃ》でない証拠には、まだオドオドとして、何か案内の許しを乞うような言葉があったのですが、誰もそれに挨拶を与えるものがないので、思いきって床の板に踏み上りました。
これはまた、是非もないといえば是非もないことで、つんぼであった金椎《キンツイ》の耳には、ただでさえ、僅かの案内では耳にうつろうはずもないのを、この時は、前にいう通り、仮睡から熟睡へ落ちた酣《たけな》わの時分でしたから、最初のおとないも、あとの闖入も、いっこう注意を呼び起そうはずはなく、一歩一歩に居直る闖入者の大胆なる態度を、如何《いかん》ともすることができません。
この闖入者は、部屋の一隅に眠れる金椎のあることを発見して、一時はギョッとしたようでしたが、やがてニッと物すごい笑い方をして、いっそう足音を忍び、とにかく、その部屋の中をしげしげと見廻しました。
そうして、余物には眼もくれず、釜や、鍋や、どんぶりや、お鉢や、皿や、重箱の類、あらゆる食器という食器の蓋《ふた》を取って見たり、のぞいて見たりしたが、やがて一方の食卓の前に腰をおろすと、そこらにありとあらゆる食物を掻《か》き集め、皿にもり上げ、さじを取って食いはじめました。
この際、この闖入者の風貌を篤《とく》と見ると、眼が碧《あお》で、ひげの赤い異国人でありました。
田山白雲よりもいっそう肥大な形に、ボロボロになった古服とズボンをつけた、マドロス風の異国人であります。
どこの国の異国人だか、それは一向にわからないが、西洋種であり、マドロス風であり、乞食じみていることは、一見、争うべからざるのみならず、ガツガツ飢えきって、多分、一飯の恵みにあずかろうとしてここへ来て、ツイ出来心で、食物にカジリついたものであることはその挙動でもわかる。要するに、闖入者ではあるが強盗ではない。乞食を目的として来たものだろうが、乞食を職業としているものではあるまい。
流れ流れて来た流浪人としても、陸上からは、こんなのが流れて来るはずがない。太平洋の上を一人で流れて来るはずもない。こういう姿を、この際見るのは、降って湧いたようなものだが、何事の詮索《せんさく》よりも急なのは、飢えである。彼はガブリガブリとあらゆる食物を、手当り次第に食っている。ただ食うのではない、アガキ貪《むさぼ》り、ふるいついて食っている。
単に、この部屋にありとあらゆる食物といってしまえばそれだけのものだが、その材料は、金椎としては、かなりに苦心して集めたもので、またすべて苦心して調味を終えたものもあり、苦心してたくわえて置いた調味料もある。
それを、この闖入者は無残にも、固形のものは悉《ことごと》く食い、液体のものは悉く飲むだけの芸当しか知らないらしい。それを片っぱしから取って、胃の腑《ふ》に送りこむだけのことしか知らないらしい。
今日は、あれとこれを調合し、主客の味覚をいちいち参考とし、明日に持越さないだけの配分を見つもり、その秩序整然たる晩餐の準備が、眠れる眼の前で、無残にも蹂躙《じゅうりん》され、顛覆《てんぷく》されている。それを、全然知らない金椎もまた悲惨であるが、飢えのために、この料理王国のあらゆる秩序を蹂躙し、顛覆せねばならぬ運命に置かれた闖入者の身もまた、悲惨といわねばならぬ。
その壁間にかかぐるところ、支那料理法の憲法なる「随園食箪《ずいえんしたん》」には何と書いてある。試みに田山白雲が圏点《けんてん》を付してあるところだけを読んで、仮名交り文に改めてみてもこうである、
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「凡《およ》ソ物ニ先天アル事、人ニ資禀《しひん》アルガ如シ。人ノ性下愚ナル者ハ、孔孟|之《これ》ヲ教フト雖《いへど》モ無益也。物ノ性|良《よろ》シカラズバ、易牙《えきが》之ヲ烹《に》ルト雖モ無味也……」
又|曰《いわ》く、
「大抵一席ノ佳味ハ司厨《しちゅう》ノ功其六ニ居リ、買弁ノ功其四ニ居ル……」
又曰く、
「厨者ノ作料ハ婦人ノ衣服首飾ナリ。天姿アリ、塗抹ヲ善クスト雖モ、而《しか》モ敝衣襤褸《へいいらんる》ナラバ西子《せいし》モ亦《また》以テ容《かたち》ヲ為シ難シ……」
又曰く、
「醤ニ清濃ノ分アリ、油ニ葷素《くんそ》ノ別アリ、酒ニ酸甜《さんてん》ノ異アリ、醋《す》ニ陳新ノ殊アリ、糸毫《しごう》モ錯誤スベカラズ……」
又|曰《いわ》く、
「調剤ノ法ハ物ヲ相シテ而シテ施ス……」
又曰く、
「諺《ことわざ》ニ曰ク、女ヲ相シテ夫ニ配スト。記ニ曰ク
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