ほど、その通りです」

         十五

 二人が外出のあと、支那少年の金椎《キンツイ》は、料理場で料理をこしらえておりました。
 その以前は、駒井とほとんど二人暮しでありましたから、台所の仕事も二人前で済みましたけれど、このごろは客がふえましたから、金椎の仕事も多くなったのは当然です。
 君子は庖厨《ほうちゅう》に遠ざかる、と聖人が言いましたが、金椎のこの頃は、庖厨の中で聖書を読むの機会が多くなりました。
 それは金椎自身が、料理は自分の職分と考えていたから、人の少ない時は少ないように、多い時は多いだけの努力をして、この方面には、誰にも手数も心配もかけまいとの覚悟を以て、この城廓の大膳《だいぜん》の大夫《だいぶ》であり、大炊頭《おおいのかみ》を以て自ら任じているらしいのです。
 ことに、人が幾人ふえようとも、先天的に、話相手というものの見出せない不具な少年にとっては、かえってこの台所の城廓が、安住所でもあり、避難所でもあり、事務所でもあり、読書室でもあって、甘んじてここに納まって、職務以外の悠々自適を試みているというわけです。
 とはいえ、その職務に対しても金椎は、また大いなる研究心を持っている。研究というのは、自分が食事をつかさどる以上は、なるべくよき材料を、よく食べさせたいという念願、いかにしたらば、よき材料が得られ、それをうまく人に食べさせることができるか、という工夫であります。
 金椎はこの範囲で、絶えず料理法の研究を頭に置いている。それはかねてより、自分にも料理の心得があって、外国船に乗込んでいる時分にも、支那料理について、なかなかの手腕を持っていることが船長を喜ばせたり、乗組員に調法がられたりしていて、ある外国人の如きは、金椎の庖丁《ほうちょう》でなければ匙《さじ》を取らない、というのもありました。
 ここへ来ても、駒井甚三郎のために、金椎が独特の支那料理の腕前を見せて、一方《ひとかた》ならず駒井を驚かせたものです。
 ことに感心なのは、こういった不便利だらけの生活におりながら、比較的とぼしい材料に不平もいわず、その少ない材料の範囲で、いかにもうまい手際を見せて、駒井の味覚に満足を与える働きに、感心しないわけにはゆきません。
 その金椎の料理方の腕前を、駒井が推賞すると、金椎はわるびれもせずに、
「料理では、支那が世界一だそうですね」
 駒井は、鉛筆を取って、
「ナニ、世界一、誰ガソウ言ッタ」
 金椎はそれを見ながら、口で答える、
「西洋人が言いました、料理では、支那が第一、日本が第二、ヨーロッパは第三であると言いました」
「ソレハマタ、ドウイウワケデ」
「西洋人が申します、支那の料理、口で味わうによろしい、日本の料理、眼で見るによろしい、西洋の料理、鼻でかぐによろしい――そこで、つまり料理は食べるもの、味わってよろしい支那の料理が第一でございますと言いました。しかし、わたしの料理なぞは問題になりません、真似《まね》をするだけのものでございます」
 駒井甚三郎はこの一言に趣味を感じ、果して支那料理なるものが、それほど価値のあるものか知らとの疑いを起し、最近、江戸へ書物材料を集めに行った機会に、料理書とおぼしいものを二巻ばかり持ち来って、自分が感心して読んだ後に、それを金椎に与えると、金椎は喜んで、それを大きな紙に写し取って壁間《へきかん》に掲げました。今も金椎の頭の上に見ゆるところのものがそれです。
 この壁間に掲げられた料理の書というものは、無点の漢文ですから、誰にも楽に読みこなせるという代物《しろもの》ではない。また読みこなしに、わざわざ入って来ようというほどの者もないところですから、ただはりつけた当人だけが、朝夕それを読んでは胸に納めるだけのことになっているが、ツイこの間、田山白雲がこの部屋へはいり込んで、はからずこの壁書を逐一《ちくいち》読み破って、アッと感嘆して舌をまきました。
 料理書の標題には「随園食箪《ずいえんしたん》」とあるが、白雲はよほど、この料理書の張出しには驚異を感じたと見えて、お手のものの絵筆で、そのある部分に朱を加えたり、評語を書きつけたりしたのが、今でもそのままに残っている。その壁書の下で仕事をしていた金椎は、暫くして、卓にもたれてのいねむりが熟睡に落ちたところであります。
 眠るつもりでここへ来たのでないことは、金椎の眼の前に、読みさしの書物が伏せてあることでもわかるが、まだ晩餐《ばんさん》までには時間もあるし、主人の外出というようなことで幾分は気もゆるんだと見え、ついうとうとと仮睡に落ちたものでありましょう。本来、少年のことだから、眠れば、仮睡から熟睡に落つるにはたあいがない。
 金椎が仮睡から熟睡に落ちている間、この部屋へ、一人の闖入者《ちんにゅうしゃ》が現われました。
前へ 次へ
全63ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング