、人ハ必ズ其|倫《たぐひ》ニ擬スト。烹調《ほうてう》ノ法何ゾ以テ異ナラン、凡ソ一物ヲ烹成セバ必ズ輔佐ヲ需《もと》ム……」
又曰く、
「味|太《はなは》ダ濃重ナル者ハ只宜シク独用スベシ、搭配スベカラズ……」
又曰く、
「色ノ艶ナルヲ求メテ糖ヲ用ユルハ可ナリ、香ノ高キヲ求メテ香料ヲ用ユルハ不可ナリ……」
又曰く、
「一物ハ一物ノ味アリ、混ズベカラズシテ而シテ之《これ》ヲ同ジウスルハ、ナホ聖人、教ヘヲ設クルニ才ニヨツテ育ヲ楽シミ一律ニ拘ラズ、所謂《いはゆる》君子成人ノ美ナリ……」
又曰く、
「ヨク菜ヲ治スル者ハ須《すべから》ク……一物ヲシテ各々《おのおの》一性ヲ献ジ、一椀ヲシテ各々一味ヲ成サシム……」
又曰く、
「古語ニ曰ク、美食ハ美器ニ如《し》カズト……」
又曰く、
「良厨ハ多ク刀ヲ磨シ、多ク布ヲ換ヘ、多ク板ヲ削リ、多ク手ヲ洗ヒ、然《しか》ル後、菜ヲ治ス……」
[#ここで字下げ終わり]
「随園食箪《ずいえんしたん》」と「戒単」とは支那料理法の論語であり、憲法であります。
 今や、その論語と憲法の明章たる下で、蹂躙《じゅうりん》と破壊とが行われている。見給え、この闖入者《ちんにゅうしゃ》は薄と厚とを知らない、醤と油とをわきまえない、清と濃との分も、葷《くん》と素《そ》との別も頓着しない――およそ口腹を満たし得るものは、皆ひっかき廻して口に送る。料理王国の権威は地に委して、すさまじい混乱が、つむじのような勢いで行われている。
 この闖入者にとっては、やむを得ざる生の衝動かも知れないが、料理王国の上からいえば、許すべからざる乱賊であります。
 革命は飢えから起ることもあるが、飢えが必ず革命を起すとは限らない、飢えが革命まで行くには、時代の圧迫という不可抗力と、煽動屋というブローカーの手を経る必要があるように思う。
 だから、ここで行われているのは、実はまだ革命というには甚《はなは》だ距離のあるもので、モッブというにも足りない。ほんの些細のないしょごとに過ぎないでしょう。何となれば、革命のした仕事は取返しがつかないが、モッブの仕事は、あとで相当に整理もできるし、回復もできるはずであります。殊に、飢えが室内で行われ、また室内で回復されている間は、ほとんど絶対的といってよいほど安全で、どう間違っても、その室内者の胃の腑《ふ》を充たす悩みだけの時間であるが、これに反して、飢えが室内から街頭へ出た時はあぶない。
 例えば、ありとあらゆる飲食物を、滅茶苦茶に掻《か》きまぜてみたところで、それを悉《ことごと》く食い尽してみたところで、後で多少料理番を狼狽《ろうばい》させるだけのことで、取返しのつかない欠陥というものは残らないはずであります。闖入者がいかにこの場で蹂躙《じゅうりん》をほしいままにしても、それは結局、この金椎《キンツイ》の平和なる仮睡をさえ破ることなくして終るのだからツミはない。
 果して、いくばくもなく、胃の腑を充分に満足させた闖入者は、げんなりとして、人のよい顔をし、充ち満ちた腹をゆすぶって、四方の隅々までジロリジロリと見廻しました。
 ほんとうに人のよい顔です。十九年ツーロンの牢にいた罪人は、こんなおめでたい顔をしてはいなかった。食に充ち満ちた闖入者は、炉にあった鉄瓶を取って、その生ぬるい湯をガブガブと飲む。
 そこで、またも念入りに金椎の寝顔を見てニッコリと笑ったが、これとても、好々たる好人物の表情で、この時、「お前、何をしているの、食べてしまったら、サッサと膳をお洗い……ほんとにウスノロだね」とおかみさんにでも怒鳴られようものなら、一も二もなく、「はい、はい」と恐れ入って、流し元へお膳を洗いに行く宿六《やどろく》の顔にこんなのがある。
 しかし、金椎はまだ眼がさめない。そこで、人のよい闖入者《ちんにゅうしゃ》はいよいよ、いい気持になって、深々と椅子に腰をおろして、ついに懐中からマドロスパイプを取り出してしまいました。
 パイプに、きざみをつめて、炉の中の火をかき起そうとした時、闖入者は、ハタと膝を打ちました。膝を打った時は無論、パイプは食卓の上に載せてあったので、彼はここで、食後の一ぷくをやる以前に、忘れきっていた重大な一事を思い出したかに見ゆる。
 そこで、パイプも、火箸《ひばし》も、さし置いて、彼は立ち上り、よろめいて、そうして戸棚のところへ行って、その戸棚を慎重にあけて、そうして、以前よりはいっそう人のよさそうな顔を、ズッと戸棚の中につき込み、あれか、これかと戸棚の中を物色したものです。
 繰返していう通り、これは盗みを目的として来たのではない。眼前口頭の飢えが満たされさえすれば、暗いところをのぞいて見る必要は更になかるべきはずだが、かく戸棚の隅々を調べにかかったのは、衣食足って礼節を知る、という段取りかも知れない。果して
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