笑い声を持っている者はほかにはありません、それは鐙小屋《あぶみごや》の神主さんでありました。
『まあ、神主様でしたか?』
『お雪さん、考え過ぎてはいけませんよ』
『ビックリしましたわ』
『は、は、は、わたしの方でビックリしましたよ、また一人心中が持ちあがるのじゃないかと思って――』
『そんなことはありませんよ』
『それでも危ないものだ、お雪さん、もっとこっちへおいでなさい』
『どうして?』
『お前さんの、顔の色さしがいけません、もっと明るいところへおいでなさい』
『ずいぶん明るいじゃありませんか』
『自分で、自分の顔がわかりますか?』
変なことをいう神主様だと思いましたが、その時に、またふとわたしの胸に浮んだのは、では、自分でこそわからないが、このごろのわたしの顔色は、いつもと違っているのではないかしら。
もしかして、わたしに、林の中をしょんぼりと歩いていた浅吉さんの顔の色、あんな色が現われているのではないかと、それを思い浮べて、何ともいえないいやな心持に打たれました。
人が見たら、わたしの顔にも、あんないやな色が浮いているのではないか知ら……
その時に、神主様はまた高らかに打笑い、
『お前さんの顔は、可愛ゆい、邪気《つみ》のない顔でしたが、このごろ、陰気になってきました。こんなところにいると、死にたくなりますから、こっちへおいでなさい』
といって神主様は、わたしの手を取って、ズンズンと鐙小屋の方へ引っぱって行きました。

弁信さん――
それから、わたしはあの神主さんに伴われて、鐙小屋まで参りましたが、すべてが、なんという陽気なことでしょう。
あの神主さまの顔は、かがやくばかりです。といっても、神様のように神々《こうごう》しく、近寄り難いかがやきではなく、人間が始終、何かに満足しながらいきているようなかがやきであります。
わたしを離れ岩の上から引きつれて行った手の温かいこと、こんな寒いところに、ひとり行《ぎょう》をしているとは思われませんでした。
炉へ火をたいて、わたしを温まらせながら、わたしの顔を見て、にっこりと笑った眼の細い、頬のたっぷりとした、蔭や、毒というものの微塵《みじん》も見えないあの面立《おもだ》ち。活《い》きた福の神様というのが、これだろうと、つくづく、わたしはその時に感心致しました。
しかし、この福の神様は、俵もたくわえていないし、金銭も持ってはいないし、そば粉か何かを、毎日少しずつ食べているだけだそうです。
この神主様は毎朝、お光を仰ぐために、乗鞍ヶ岳の頂上の、朝日権現様まで、人の知らないうちに登り、人の知らないうちに帰って参ります。
足の達者な人でも、日帰りにはむつかしい山路を、この神主さんは、ほんの数えるだけの時間で、往ったり来たりしていますのが、とても真似《まね》ができないといって、山の案内者たちも、舌をまいているのでございます。
『お嬢さん、あなた、陽気にならなきゃいけません。陽気になるには、お光を受けなきゃなりません。お光を受けて、身のうちをはらい清めなきゃなりません。人は毎日毎朝、座敷を掃除することだけは忘れませんが、自分の心を、掃除することを忘れているからいけません。自分の心を明るい方へ、明るい方へと向けて、はらい清めてさえ行けば、人間は病というものもなく、迷いというものもなく、悩みというものもないのです。ですから、何でも明るい方へ向いて、明るいものを拝みなさい。一つ間違って暗い方へ向いたら、もういけませんよ。暗いところにはカビが生えます、魔物が住込みます、そうして、いよいよ暗い方へ、暗い方へと引いて行きます。暗いところには、いよいよ多くの魔物の同類が住んでいて、暗いところの楽しみを見せつけるものだから、ついに人間が光を厭《いと》うて、闇を好むようなことになってしまうと、もう取返しがつきませんよ……早いたとえが、この間のあの二人をごらんなさい、あの年とった、いやにいろけづいたお婆さんと、それにくっつききりの若い男とをごらんなさい、あれがいい証拠ですよ。あれが明るいところから、わざわざ暗いところへ、暗いところへと択《よ》って歩いて、その腐りきった楽しみにふけったものだから、つい、あんなことになってしまいました。外の空気のさえ渡って、日の光がたまらないほど愉快な小春日和《こはるびより》にも、あの二人は、拙者がいないと、この小屋の中へはいり、小屋をしめきっては、暗いところでふざけきっていました。だから、わたしは山から帰る早々、それを見つけると、戸をあけ払って、二人をはらい出したものです。二人は、拙者の振り廻す御幣《ごへい》をまぶしがって、恐れちぢんで逃げ出したが、逃げ出して暫くたつと、またあの森かげへ隠れて、くっつき合っていましたよ。とても度し難いというのはあれらでしょう、放って置いてもいいかげんす
前へ 次へ
全63ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング