、わたしは、あなたに紙を送って下さい、沢山に……と何よりも先に、このことをお願いしたいと思います。
今日は焼ヶ岳を見物に参りました。
焼ヶ岳という山は、距離にしてはここから、さほど遠いところではありませんが、この温泉場では見えません。乗鞍ヶ岳というのも、つい近いところにあるのですが、それもここで見ては見えません……少なくとも、これらの山々を眺めるところまで行くには、無名《ななし》の沼を越えて、かなりの山路をのぼって行かなければならないのです……乗鞍ヶ岳も好きですが、焼ヶ岳の煙を見ることも、わたしはいやではありません。

弁信さん――
わたしは今、焼ヶ岳の歌をつくりました。歌といえましょうか知ら。
茂ちゃんの歌と比べてどうですか。少なくともなさか[#「なさか」に傍点]のわかるだけは、わたしの方がましだと思っていただきとうございます。
茂ちゃんの歌は、全くあれはでたらめでしょうけれど、あのでたらめに、わたしは何ともいえず引きつけられることがあります。もし、あの子に歌の学問をさせたら、どんなに立派な歌よみになるか……それとも、学問をさせたら、さっぱり歌がうたえなくなるか、そのことは、わたしにはわかりません。
まあ、わたしの歌を書きつけてみましょう。

[#ここから3字下げ]
焼ヶ岳よ
お前はなぜ火をふいている
このあたりには
高い山という山が
かずしれずあるその中で
昔はみんな
お前と同じように
争うて天に向って
火を吐いていたというが
今はみんなおとなしく
鳴りをしずめ
気焔を納め
雪に圧《おさ》えられても
風にけずられても
怖れもせず
泣きもせず
千古の沈黙に
落ちてしまって
生きているのか
死んでしまったのか
それさえわからないのに
焼ヶ岳よ
お前だけが生きている
もう少し高いところで
見てごらんなさい
槍が見える
穂高が見える
白馬の背が見える
笠ヶ岳も錫杖《しゃくじょう》も
立山も乗鞍も
木曾の御岳山も
加賀の白山も
みんなお前よりは
兄さん分であろうのに
どれもこれも
雪に圧《お》されて
頭を上げ得ないのに
お前だけはその頭上に
降る雪を寄せつけないで
天に向って焔をあげる
胸に思い余る火があって
外に燃ゆる恨みが
いつまでもお前を若くし
さながら、乙女の
みどりの黒髪に似た
その煙
その煙が美しい……

[#ここから1字下げ]
弁信さん――
わたしの歌は、これでおしまいになったのではありません。
わたしは、まだまだこれから山々の歌をつくりたいと思っていますが、歌を作るのは、手紙を書くのよりも時間がかかります。
わたしは、この手紙を書くのと、歌を作るのとの興味に駈《か》られて、この二三日というものは、炉辺の皆さんの学問にも、お話の席にも、顔出しをしませんものですから、みんな変に思っているかも知れません。
そういうと何ですけれども、わたしは、これでも歌を作ることに見込みがあるんですって。池田先生が、お世辞ではないと、大へんにほめて下すったものですから、このごろは、筆をとって歌を思い、手紙を書こうとすると、ほんとうに夢中になってわれを忘れてしまいます――
静かな温泉にいて、山を見たり、水をながめたり、そうして、ひまがあれば歌や、手紙を書いているわたしのただいまの生活を、あなたは羨《うらや》ましいと思う……それは違います。
わたしは苦しいのです、いわば苦しまぎれです。夜になると、わたしは夢の中で――さいなまれ、いじめられ、弄《もてあそ》ばれ、――ああ、それは言いますまい、思い出すさえ浅ましい。

弁信さん――
今日も、わたし、あの離れ岩の上に立って、じっと無名沼《ななしぬま》の水を見つめておりました。
その時のわたしは、いつもと違って、無心に、あの水の色と、絹糸のような藻に、みとれていたのではありません。
わたしはこの無名沼を歌によみたいと思って、われを忘れておりましたのです。
そこで、わたしは、短い歌を三つばかり考えましたが、どうも、まだ言葉が足りないので、しきりに工夫を凝《こ》らしておりましたものですが、沼の水の色も、自分の立っている離れ岩のことも、その離れ岩の不祥な思い出のことなんぞも、すっかりその時に忘れ果て、ただ歌にばかり夢中になっておりました。
そうすると、不意に後ろから、わたしの肩を押えるものがあるので、わたしは、倒れるばかりに驚かされてしまいました。
『あ……どなた?』
たしかに、わたしの人相まで変っていたことでしょう。
ところがその人は案外に、
『は、は、は、は……』
と高らかに笑いました。
その笑い声で、わたしは、はっと合点《がてん》がゆきましたが、同時に、今の恐怖は飛び去るようになくなってしまいました。その笑い声が、晴れた日に鼓《つづみ》でも鳴らすような、さえざえした陽気な笑い声で、この辺に、こんな陽気な
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