それはまあ安心です……誰か様子を見に行って来ては……」
「そうですね……」
といったけれども、誰も急に立とうとする者はありません。まず立ち上るべきほどの人でも、お雪の占《し》めている柳の間までは、長い廊下の、暗いところを伝い伝って、三階まで行かなければならぬおっくうさが、先に立ったものと見える。
また物にせつかない連中は、来る時には招かずとも来る人、来ないのは、何かさしさわりがあるのだろう、招きに行って、迷惑がらせるにも及ぶまい、という遠慮もあってのことらしい。
強《し》いて呼び迎えて来なければならぬというほどのことはないが、お雪がいないため、この一座の淋しさは、他の何者でも埋められないと見えて、噂《うわさ》はやっぱりお雪のことのみに集まる。
「お雪ちゃんは、昨晩泣いていましたよ」
「え、泣いていましたか?」
「夜中に、泣いていました」
「では、急病でも起ったのか知ら?」
「わたしも、そう思いましたから、暗い廊下を半分ばかり駈けつけてみましたが、急にやめました」
「どうして?」
「泣いていたお雪さんの部屋に、人が一人いるようですから……」
「誰ですか、あの久助さんですか、そういえば久助さんもいない」
「いいえ、久助さんでは……」
といって語る人が、おのずから言葉がふさがって、顔色があおざめ、くちびるがふるえ、歯の根が合わないものですから、委細を知らない人たちまでがゾッとして、水を浴びせられたような気分になりました。
その翌日も、お雪は、炉辺《ろへん》の一座へ顔を見せませんでした。
けれども別に病気でないことは、ひとりでお湯につかっていることもあるし、廊下ですれ違った人もあるのですから、その点は心配はないが、湯に入っている時でも、人を見ると逃げるように、廊下で逢う時も、わざと顔をそむけるようにして通り過ぎるのを、いつもの快活な人に似合わないと、噂をする者もありました。それで、あの娘は病気でもなんでもないけれど、連れの人が悪いので、それがためにお雪も出ぬけられないのだろう、と解釈する者が多くなりました。
お雪には、久助のほかに連れの人がある。お雪の口ぶりによれば、それは兄であるともいうし、また先生と呼ぶようなこともあるが、その人は、絶対にこの一座の人には加わることがないのみならず、その存在を知っている人すらも、この一座の中に極めて稀れだという有様であります――つまり、その人の病気が悪いので、お雪が心配して、自分も浮かぬ色になり、楽しみにしている炉辺の閑話にも出られないのだろうと、好意に解釈したり、想像したりして、この上もなく物足りないながら、わざわざ人をやって、お雪を招こうとはしませんでした。
ところが、一日たち、二日たつうちにも、お雪は容易にこの席へ再び姿を現わそうとはせず、そのくせ、抜け出すようにして、かなりのひとり歩きを試みて帰ることが多いようです。つまり、今まで社交を好むように見えたお雪の性格が一変して、なるべく人を離れて、ひとりほしいままにすることを好むような性癖に変ったと見れば、見られないことはありません。
十三
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「弁信さん……
今日はわたし、焼ヶ岳を見に参りましたのよ……」
[#ここで字下げ終わり]
お雪はまたしても弁信にあてての手紙を書き出しました。
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「弁信さん……
わたしは何につけても、かににつけても、あなたの名を呼びかけずにはおられません。
その次には、いつも茂ちゃんのことが気にかかります。
茂ちゃんをよく見て下さい。あの子は気ままにどこへでも行きますから、あなたの見えない目で、いつまでも見ていていただかないと、あの子はどこの空へ飛んでしまうかわかりません……
弁信さん――
何をおいても、わたしが、あなたの名を呼びかけずにはおられないように、あなたの名を呼びかけると、どうしても机に向って、この心のありのまま、思うままを書いてみないではいられません……
最初はただ、あなたにおたよりだけをしたい心持で、かりそめに筆を執りましたのですが、今となってみると、もうわたしは、これを書かずにはおられません。あなたのお手許《てもと》へ届こうとも、届くまいとも、あなたが見て下さろうとも、下さるまいとも、わたしはこの手紙を書かずにはおられなくなりました。
つまり、今のわたしは、手紙に書くために手紙を書いているようなものでございます。
用意に持って参りました白い紙は、だいぶ残ってはいますが、この分で、わたしが精いっぱいに書いたら、忽《たちま》ちそれがつきてしまうことは眼に見えるようです。用意の白紙がなくなったら、わたしは、ふところ紙でも、紙のきれはしでも、白いという白いものは大切にしようと、今から心がけています。もし弁信さんが近いところにいましたなら
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