納メテ、何事モ起ラザリシガ如ク平然トシテ歩ミ去ル……単ニ刀ノ切味ヲ試サンガ為ニ、試シ斬リヲ行フコト珍シカラズ」
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これもまた、たしかに日本人のうちの性癖の一つで、駒井自身も幾度かそれを実地に見聞いている。これは美徳とも、長所ともいえまいが、外国人が見たら、たしかに、日本国民性の一つの特色として驚異はするだろう、と駒井はようやく筆を進ませて、
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「日本ノ貴族ニハ不法ニシテ傲慢《ごうまん》ナル習慣アリ。足ヲ以テ平民ヲ蹴リテ怪シマズ。平民自身モマタ奴隷タルベクコノ世ニ生レ出デタルモノニシテ、人格ト権利ヲ没却セラレテモ、之ヲ甘ンジテ屈従スルモノノ如シ。惟《おも》フニ日本貴族ノコノ傲慢ナル風習ヲ改メシムルノ道ハ、耶蘇教《やそけう》ノ恩沢ヲコレニ蒙ラシムルノ外アルベカラズ」
[#ここで字下げ終わり]
そこで、なるほど、外国人の眼から見た時は、階級制度の烈しい日本の国では、貴族と、平民との関係が、こうも見えるのかしら、これでは野蛮人扱いだ、と思いました。しかしこれは、西洋で十六世紀から十七世紀の間、日本では戦国時代から徳川の初期へかけて日本に渡来した、主として耶蘇教の宣教師の目に映った日本人の観察である、日本人自身では気のつかない適切な見方もあろうが、また思いきった我田引水もあるようだ――現に日本貴族の傲慢なる風習を改めしむるの道は、耶蘇の教えを以てするよりほかはない、と断言したところなど、日本に宗教なしと見縊《みくび》っていうのか、或いはまた事実この道を伝うるにあらざれば、人類救われずとの信念によって出でたる言葉か――駒井自身では動《やや》もすれば、そこに反感を引起し易《やす》い。
だが、耶蘇の教えが、偽善と驕慢を憎んで、愛と謙遜を教えるところに趣意の存することは、朧《おぼろ》げながらわかっている。
駒井甚三郎が今日読んでいるのは、その専門とするところの兵器、航海等の科学ではなく、宗教に関するところの書物であります。宗教というたとても、それはキリスト教に関するもののみで、いつぞやわざわざ番町の旧邸を訪ねて、一学を煩《わずら》わし、その文庫の中から選び齎《もたら》し帰ったものであります。今や、駒井甚三郎は、キリスト教を信じはじめたのではありません。また信じようと心がけているわけでもありません。
給仕の支那少年との偶然の会話が縁となって、これを知らなければならぬとの知識慾に駆《か》られたのが、そもそもの動機であります。
何となれば、西洋の軍事科学の新知識に於ては、当代に人も許し、吾も信ずるところの身でありながら、その西洋の歴史を劃する宗教の出現について、ほとんど無知識であるのみならず、不具なる支那少年から、逆に知識を受けねばならぬことは、これ重大なる恥辱であると、駒井の知識慾が、そういうふうに刺戟を与えたから、彼は暫く、軍事科学の書物を抛擲《ほうてき》して、専《もっぱ》ら、キリスト教の書物を読むことになったのです。
要するに信仰のためではなく、知識のために読み出しているのです。
で、読み行くうちに、どの読書家もするように、要所要所へ線を引いておいて、それを座右に積み重ね、今やその要所を改めて摘録《てきろく》し、翻訳してノートにとどめている。
さてまた、一冊をとりひろげて、その引線の部分を摘訳する。
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「福音書ノ何《いづ》レノ部分ニモ耶蘇《やそ》ノ面貌ヲ記載シタルコトナシ。サレバ、後人、耶蘇ノ像ヲ描カントスルモノ、ソノ想像ノ自由ナルト共ニ、表現ノ苦心尋常ニアラズ。
或者ハ、耶蘇ノ面貌ヲ以テ、醜悪ニシテ、怖ルベキ勁烈《けいれつ》ノモノトナシ、或者ハ、温厳兼ネ備ヘタル秀麗ノ君子人トナス。
アンジェリコ、ミケランゼロ、レオナルドダビンチ、ラファエル及チシアン等ノ描ケル耶蘇ノ面貌ハ皆、荘厳《そうごん》ト優美トヲ兼ネタル秀麗ナル男性ノ典型トシテ描キタレドモ、独《ひと》リ十四世紀ノジョットーニサカノボレバ然《しか》ラズ。
人|一度《ひとたび》、アレナノ会堂ニ赴《おもむ》キテ、ジョットーノ描キタル、ユダノ口吻《くちづけ》スル耶蘇ノ面貌ヲ見タランモノハ、粛然トシテ恐レ、茲《ここ》ニ神人ナザレ村ノ青年ヲ見ルト共ニ、ジョットーノ偉才ニ襟ヲ正サザル無カルベシ。
ミケランゼロモ、ダビンチモ、耶蘇ノ有スル無限ノ悲愁ト、沈鬱トヲ写スコト、到底ジョットーノ比ニアラズ。
イハンヤ、ラファエルニオイテヲヤ……未ダカツテ……ジョットーヨリ純正偉大ナル宗教画家ハナシ。茲ニソノ伝記ノ概要ト、作品ノ面影《おもかげ》トヲ伝ヘン哉《かな》……」
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ここまで訳し来った駒井甚三郎は、ページを一つめくり[#「めくり」に傍点]ました。全く世の中は儘《まま》にならないもので、田山白雲はああして狂気のようになって、いろはからその知識を探り当てようともがいているのを、駒井甚三郎は何の予備もなく、何の苦労もなしに、かくして読み、且つ訳している。
田山の帰ることが二三日おそければ、駒井はこの西洋宗教美術史の一端を、田山に話して聞かせたかも知れない。といって、そうなればまた、当然白雲はあの額面を見る機会を失ったのだから、駒井の説明も風馬牛に聞き流してしまったことだろう。「知る者は言わず、言う者は知らず」という皮肉をおたがいに別なところで無関心に経験し合っているの奇観を、おたがいに知らない。
その時分、海の方に向ったこの研究室の窓を、外から押しあけようとするものがあるので、さすがの駒井も、その無作法に呆《あき》れました。
金椎《キンツイ》でもなければ、この室を驚かす者はないはずのところを、それも外から窓を押破って入ろうとする気配は、穏かでないから、駒井も、厳然《きっと》、その方を眺めると、意外にも窓を押す手は白い手で、そして無理に押しあけて、外から面《かお》を現わしたのは、妙齢の美人でありました。
髪を高島田に結《ゆ》った妙齢の美人は、窓から面だけを出して、駒井の方を向いて嫣乎《にっこ》と笑いました。駒井としても驚かないわけにはゆきません。
「お前は誰だ」
駒井が窘《たしな》めるようにいい放っても、女はべつだん驚きもしないで、
「御存じのくせに。ほら、あの、鋸山の道でお目にかかったじゃありませんか」
「うむ」
「わかったでしょう。あなたは、あの時の美《い》い男ね」
「うむ」
「中へ入れて頂戴」
駒井は、あの時の狂女だなと思いました。高島田に結って、明石の着物を着た凄いほどの美人。羅漢様の首を一つ後生大事に胸に抱いて、「お帰りには、わたしのところへ泊っていらっしゃいな」といった。
それが、どうしてここへやって来たのだ。保田から洲崎《すのさき》まで、かなりの道程《みちのり》がある。ともかく、駒井もこのままでは捨てておけないから、椅子を立ち上って、
「ここはいけない、あっちへお廻りなさい」
「いいえ、あたしここから入りたいの」
「いけません、入るべきところから、入らなければなりません」
「いいえ、表には人がたくさんいるでしょう、犬もいるでしょう、ですからあたし、ここから入りたいの」
「表には誰もいやしませんから、あちらへお廻りなさい」
「いや、あたしここから入るの……あなたに抱いていただいて、ここから入るの」
「ききわけがない、ここからは入れません」
「お怒りなすったの、あなた、悪かったら御免下さいね。ですけれども、あたし、そっとここから入れていただきたいの、そうして誰も気のつかないうち、あなたとだけ、お話ししていたいの」
「言うことが聞かれないなら勝手になさい、中からこの戸を締めてしまいますよ」
「その戸をお締めになれば、あたしのこの指が切れちゃうでしょう。それでもいいの?」
狂女はわざと自分の手を伸して、ガラス戸の合間に差し込んでしまいました。
「あたし、あなたに正直なことを申し上げてしまうわ、それで嫌われたらそれまでよ」
「手をお放しなさい」
「あたし、今までに七人の男を知っていますのよ」
「何をいうのです」
「あたし、これでも、もう七人の男を知っているのよ。それを言ってみましょうか。一人はあるお寺の坊さんなの、一人は家へ置いた男、それから……」
「お黙りなさい」
駒井は情けない色を現わして、上から抑えるように女の言葉を遮《さえぎ》りました。正気でない悲しさ。言うべからざることを口走り、聞くべからざることを聞くには堪えない。それを女は恥かしいとも思わず、
「けれど、それはみんな、あたしの方から惚《ほ》れたのじゃなくってよ、早くいえば、あたしがだまされたんですね、それから自棄《やけ》になって、とうとう七人の男にみんなだまされて、玩弄《おもちゃ》になってしまいました」
「ああ……」
外から押えても、中なるねじの利《き》いていないものにはその効がない。駒井はこの場の始末にホトホト困っているのを、女は少しも頓着なしに、
「その七人の名を、みんなあなたに打明けたら、あなたも吃驚《びっくり》なさるでしょう、その人たちの恥にもなりますから、あたしは言いません……それも本来は、わたしが悪いんでしょう、茂太郎を可愛がり過ぎたから、茂太郎がいやがって逃げてしまい、その時からわたしは自葉《やけ》になりましたの。あなた、突き落しちゃいやよ」
女は敷居に武者振りついて、あられもない高島田の美人は、どうしてもここから乱入するつもりらしい。
折よくそこへ金椎《キンツイ》がお茶を運んで来たものですから、駒井は金椎にいいつけて、狂女を表の方へ廻らせました。しかし、正式に案内されてこの室へ通された狂女は、今まで言ったことも、したことも、すっかり忘れたようにケロリとして、まず室内のベッドを見つけ出して、
「夜どおし歩いて来たものですから、疲れてしまいましたわ、それに眠くてたまりませんから、少し休ませて頂戴な、あとで、ゆっくりお話を致しましょう」
といって、早くも、ベッドの上に横になってしまいました。
言葉の聞えない金椎は、この女の無作法に呆《あき》れてしまったようでしたが、主人が別段それを咎《とが》めようともしないものだから、解《げ》せない面《かお》をしながら、横になった狂女の身体《からだ》に毛布をかけてやりました。
金椎が出て行くと共に、駒井もこの室を退却してしまったので、あとは狂女がこの室を、わがものがおに心ゆくばかりの眠りについてしまいました。
この一室を暫く狂女に与えておいて、駒井は研究所を出て、造船所の方へと歩き出しました。前にいった通り、この日は陰鬱な天気の日で、大武《だいぶ》の岬も、洲崎も、鏡ヶ浦も、対岸の三浦半島も、雲に圧《お》されて雨を産みそうな空模様でした。
程遠からぬ造船所へ来て見ると、十余人の大工と、職工が、相変らず暢気《のんき》に仕事をしています。暢気といっても、怠けているわけではなく、かなり根強い仕事を、焦《あせ》らないでやっている。
駒井が、そっと裏の方から入り込んだ時分に、大工と、職工とは、お茶受けの休みで、こんなことを話している。
「殿様は、この船へ自分の好きな人だけをのせて、異国へおいでなさるそうだが、もし、大海の中で無人島へでも吹きつけられたら、そこで国を開くとおっしゃっていたが、新しい国を開いてそこに住んだら、圧制というものがなくて、住み心地がいいだろうなあ」
一人が言うと、
「そりゃ面白かろう。だが、新しい国を開いたところで、女というものがなければ種が絶えてしまう、いったい殿様は、この船に女をのせるつもりだろうか、どうだろう」
というような話をしているところへ、駒井がひょっこりと姿を現わしたものだから、みんな居ずまいを直して、
「殿様がおいでになった」
船大工の和吉が立って駒井の傍へ来て、小腰をかがめながら、
「殿様、ビームの付け方をもう一度、検分していただきとうございます」
この男は豆州戸田の上田寅吉の高弟で、ここの造船係の主任です。師匠うつしで、今でも駒井に向って、殿様呼ばわりをやめない。和吉が殿様呼ばわりをするものだから、総ての大工、
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