しどもは、親類の者で、つまり、この家の主人の兄貴といったようなものなんでございます、どうぞ、お見知り置かれ下さいまして」
 これだけでも、ききようによれば、かなり凄味が利《き》くはずになっているのを、白雲は真《ま》に受けて、
「ははあ、君が、ここの女主人の兄さんかね。妹さんには拙者も計らずお世話になっちまいましてね」
「どう致しまして、あの通りの我儘者《わがままもの》でげすから、おかまい申すこともなにもできやしません、まあ一服おつけなさいまし」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎が如才《じょさい》なく、携えて来たお角の朱羅宇《しゅらう》の長煙管《ながぎせる》を取って、一服つけて、それを勿体《もったい》らしく白雲の前へ薦《すす》めてみたものです。
「これは恐縮」
といって、白雲は辞退もせずに、その朱羅宇の長煙管でスパスパとやり出したものですから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵も、いよいよこの男は色男ではないと断定をしてしまいました。そうしてみると、今まで、張り詰めていた百蔵の邪推とか、嫉妬とかいうものが、今は滑稽極まることのようになって、吸附け煙草をパクパクやっている白雲の姿に、吹き出したくなるのを堪《こら》えて、胸の中で、
「どう見てもこの男は色男じゃ無《ね》え」
 全くその通り、どう見直しても、眼前にいるこの男は、自分が一途《いちず》に想像して来たような、生白《なまっちろ》い優男《やさおとこ》ではありませんでした。色が生白くないのみならず、本来、銅色《あかがねいろ》をしたところへ、房州の海で色あげをして来たものですから、かなり染めが利いているのです。それに加うるに六尺豊かの体格で、悠然と構え込んでいるところは、優男の部類とはいえない。いかなイカモノ食いでも、これはカジれまい――そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]も、ばかばかしさに力抜けがしてしまいました。
 すべて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の目安では、あらゆる男性を区別して、色男と、醜男《ぶおとこ》とに分ける。色男でない者はすなわち醜男であり、醜男でない者はすなわち色男である。男子の相場は、女に持てることと、持てないことによってきまる。そうして少なくとも自分は色男の本家の株だと心得ている。この本家の旗色に靡《なび》かぬような女は、意地を尽しても物にして見せようとする。仮りにもこの本家の株を侵すようなものが現われた日には、全力を以てそれに当る――だが、こういう場合には、なんと引込みをつけていいかわからない。
 ぜひなく、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、田山白雲に向って、自分が今日この家をたずねて来たのはいつぞや、両国の楽屋を逃げ出した人気者の山神奇童《さんじんきどう》を、こんど甲州の山の中で見つけ出したものだから、それを引連れて戻しに来たのだということをいい、来て見るとあいにく、お角が留守だったものだから失望したといい、どうかひとつその子供を、お角の帰るまで手許《てもと》に預かってもらいたいということを、手短かに白雲に頼み、
「せっかく、御勉強のところを、お邪魔を致しまして、まことに相済みません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]としては神妙なお詫《わ》びまでして、そこそこに引上げてしまいました。
 最初の権幕に似合わず、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵がおとなしく下りて来たものですから、梯子段の下に待ち構えて、いざといわば取押えに出ようとした力持のお勢さんも、ホッと息をついて喜んでしまいました。

         九

 その翌日から、田山白雲の周囲《まわり》に、般若《はんにゃ》の面《めん》を持った一人の美少年が侍《かしず》いている。それは申すまでもなく清澄の茂太郎であります。
「おじさん」
「何だい」
 白雲が机の上に両臂《ひょうひじ》をついて、今も一心に十四世紀の額面を眺めている傍から、茂太郎が、
「ねえ、おじさん」
「何だい」
「後生《ごしょう》だから……」
「うむ」
「後生だから、あたいを逃がして頂戴な」
「いけないよ」
「そんなことをいわないで」
「どうして、お前はここにいるのをいやがるのだ、ここの家の人がお前を苛《いじ》めでもしたのかい」
「いいえ、ここの家の人は、親方も、姉さんたちも、みんなあたいを大切《だいじ》にしてくれます」
「そんなら逃げるがものはないじゃないか」
「でもね、おじさん、弁信さんが心配しているから」
「弁信さんというのは何だい」
「弁信さんは、わたしのお友達よ」
「あ、そうか、お前をそそのかして連れて逃げ出したというその小法師のことだろう、いけません、お前はそんな小法師にだまされて出歩くもんじゃありません、おとなしく親方や朋輩《ほうばい》のいうことを聞いていなけりゃなりませんよ」
「いいえ、弁信さんにだまされたんじゃありません、弁信さんは人をだますような人じゃありませんのよ、それはそれはあたいを大切《だいじ》がって、あたいがいないと、どのくらい淋しがっているか知れないでしょう、それを黙って出て来たんだから、だからもう一ぺん弁信さんに逢いたいの、ね、叔父さん、逢わして頂戴、後生だから」
「そりゃお前、料簡違《りょうけんちが》いというものだよ、お前は、その弁信さんというのより、こっちの方に義理があるのだろう、そう無暗に出歩いてはいけない」
「…………」
 茂太郎はここに至って、失望の色を満面に現わしました。最初から画面に心を打込んでいる白雲には、その色を見て取ることができなかったが、会話がふっと途絶《とだ》えたので気がつき、
「だが、時が来れば逢えるようにしてやるから、逃げ出したりなんぞしないで、おとなしく待っていなければならない」
「時って、いつのこと」
「それは、いつともいわれないが、ここの主人が旅から帰って来たら、よく話をして、その弁信さんというのに逢えるようにしてあげよう」
「そうなると、いいですが、みんなが弁信さんをよく思っていないから――」
 茂太郎が容易に浮いた色を見せないのは、ここの家では誰もが弁信をよく思っていないのみならず、誘拐者《ゆうかいしゃ》として悪《にく》んでいることを知っているからです。
「わしも長く附合っているわけではないから、よく知らんが、しかし、ここの女主人という人も、そうわからない人ではないらしいから、帰るまで待っておいで、逃げてはいけないよ。まあ、絵の本でも御覧……わしの描いた絵の本を見せてあげよう」
 白雲は、この少年を慰めるつもりで、座右に置いた自分の写生帳――房総歴覧の収穫――それを取って、無雑作《むぞうさ》に茂太郎のために貸し与えました。
 悲しげに沈黙した茂太郎は、与えられた絵の本を淑《しとや》かに受取って、畳の上へ置いて一枚一枚と繰りひろげます。
 この写生帳は、房州の保田《ほた》へ上陸以来、鋸山《のこぎりやま》に登り、九十九谷を廻り、小湊、清澄を経て外洋の鼻を廻り、洲崎《すのさき》に至るまでの収穫がことごとく収めてある。
 何も知らぬ茂太郎も、一枚一枚とその肉筆の墨の色に魅せられてゆくうちに、
「あ」
といいました。しょげ返っていた少年の頬に、サッと驚異の血がのぼりました。
「おじさん」
「何だい」
「あなたはお嬢さんの似顔を描きましたね」
「お嬢さんの?」
「ええ」
「どこのお嬢さん……」
といって、十四世紀の絵画を眺めていた田山白雲が、自分の画帳の上に眼を落すと、そこには、房州の保田の岡本兵部の家の娘の姿が現われておりました。
「これはおじさん、保田の岡本のお嬢さんの似顔でしょう、それに違いない」
「うむ、どうしてお前、それを知っている」
「あたいのお嬢さんですよ」
「お前も、保田の生れかね」
「そうじゃありませんけれど、これは、あたしのお世話になったお屋敷のお嬢さんです」
「ははあ」
 田山白雲は、何かしら感歎しました。
「お嬢さんは、あたしに逢いたがっているでしょうね、あたしが弁信さんに逢いたがっているように。そうして、おじさん、お嬢さんは、あたしのことを何とか言わなかった?」
「左様……」
 白雲は、別段この少年へといって、あの娘から言伝《ことづ》てられた覚えもない。
「お嬢さんが、あたしに初めて歌を教えてくれたのよ、それからあたしは歌が好きになってしまったのよ」
「なるほど」
 そこで、田山白雲が、その時の記憶を呼び起して、あの晩、岡本兵部の娘が羅漢《らかん》の首を抱いて、子守歌を唄ったのを思い出しました。その時、白雲も胸を打たれて、この年で、この縹緻《きりょう》で、この病と、美しき、若き狂女のために泣かされたことを思い出しました。
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ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
南条長田《なんじょうおさだ》へ魚《とと》買いに……
[#ここで字下げ終わり]
 清澄の茂太郎は、その時、何に興を催したか、行燈《あんどん》の光をまともに見詰めて、この歌を唄いはじめると、田山白雲は何か言い知れず淋しいものに引き入れられる。
 そうだ、あの時、岡本兵部の娘は、石の羅漢の首を後生大切《ごしょうだいじ》に胸に抱えて、蝋涙《ろうるい》のような涙を流し、
「ねえ、あなた、この子の面《かお》が茂太郎によく似ているでしょう、そっくりだと思わない?」
 その首を自分の机にさしおいたことを覚えている。
 してみれば、あの狂女と、この少年の間に、何か奇《く》しき因縁《いんねん》があるに違いない。そこで白雲も妙な心持になり、
「杭州《こうしゅう》に美女あり、その面《おもて》白玉《はくぎょく》の如く、夜な夜な破狼橋《はろうきょう》の下《もと》に来って妖童《ようどう》を見る……」
と口吟《くちずさ》みました。

         十

 鏡ヶ浦に雲が低く垂れて陰鬱《いんうつ》極まる日、駒井甚三郎は洲崎《すのさき》の試験所にあって、洋書をひろげて読み、読んではその要所要所を翻訳して、ノートに書き留め、読み返して沈吟しておりました。
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「フランソア・ザビエル師ノ曰《いは》ク、予ノ見ル所ヲ以テスレバ、善良ナル性質ヲ有スルコト日本人ノ如キハ、世界ノ国民ノウチ甚ダ稀ナリ。彼等ガ虚言ヲ吐キ、詐偽《さぎ》ヲ働クガ如キハ嘗《かつ》テ聞カザル所ニシテ、人ニ向ツテハ極メテ親切ナリ。且ツ、名誉ヲ重ンズルノ念強クシテ、時トシテハ殆ド名誉ノ奴隷タルガ如キ観アリ」
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 こう書いてみて駒井は、果してこれが真実《ほんとう》だろうか、どうかと怪しみました。フランソア・ザビエル師は、天文年間、初めて日本へ渡って来た宣教師。ただ日本人のいいところだけ見て、悪いところを見なかったのだろう。それとも一遍のお世辞ではないか――さて黙して読むことまた少時《しばらく》。
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「日本人ハ武術ヲ修練スルノ国民ナリ。男子十二歳ニ至レバ総《すべ》テ剣法ヲ学ビ、夜間就眠スル時ノ外ハ剣ヲ脱スルトイフコトナシ。而シテ眠ル時ハコレヲ枕頭ニ安置ス。ソノ刀剣ノ利鋭ナルコト、コレヲ以テ欧羅巴《ヨーロッパ》ノ刀剣ヲ両断スルトモ疵痕《しこん》ヲ止《とど》ムルナシ。サレバ刀剣ノ装飾ニモ最モ入念ニシテ、刀架《とうか》ニ置キテ室内第一ノ装飾トナス」
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 これは実際だ――と駒井甚三郎が書き終って、うなずきました。
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「勇気ノ盛ンナルコト、忍耐力ノ強キコト、感情ヲ抑制スルノ力ハ驚クベキモノアリ」
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 これは考えものだ……ことに今日のような頽廃《たいはい》を極めた時代を、かえって諷誡《ふうかい》しているような文字とも思われるが、しかし、よく考えてみると、古来、日本武人の一面には、たしかにこの種の美徳が存在していた。今でもどこかに隠れてはいるだろう。
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「日本人ハ最モ復讐《ふくしう》ヲ好ミ、彼等ハ街上ヲ歩ミナガラモ、敵《かたき》ト目ザス者ニ逢フ時ハ、何気《なにげ》ナクコレニ近寄リ、矢庭ニ刀ヲ抜イテ之《これ》ヲ斬リ、而シテ徐《おもむ》ロニ刀ヲ鞘《さや》ニ
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