く。
 お銀様は、やはりそれを、殺された琵琶の息を吹き返して、本能的にこの世に向って助けを求める声だと聞きました。
 だが、琵琶の死んだのと、生きたのが、何の自分にかかわりがある――
 今度は思い切って、後をも見ずに松原へ走り入ると、またしても人の呻く声が頭上に聞えました。
 お銀様は何ともいえないいやな気持になりました。それは助けを求めて聞き入れられない琵琶が、必死の恨みを罩《こ》めて自分を追いかけて来て、自分の頭の上で泣いたと思ったからです。
 お銀様はまさしく琵琶の幽霊に追われたと思いました。
 そこでお銀様は三たび冷然として立って、静かに顧みたが、松の木の間を通して見る街道の琵琶の死骸は、以前の通り身動きもしたとは思われない。
 お銀様は、その呻吟《うめき》の声の起るところを知るに惑いました。幸いにしてお銀様は、悪魔の戯れには慣れている。況《いわ》んや琵琶の脅迫に怖れて、吾を忘れるようなことはありません。自分の頭の上の、松の枝から、自分の頭とすれすれに、これは本物の人間の死骸が一つ吊下げられてあることを知りました。今の呻吟の声は、裂かれた琵琶の胴から出たのでもなく、殺された琵琶の霊魂が、恨みを帯びて自分の後を追いかけたのでもなく、まさしくこの頭上に吊された人間の死骸――とはいえまい、まだ呻吟の声の出る限りはこの世のものである。
 そこでお銀様は、静かに二三歩立ちのいて、その頭上を仰いで見ました。
 前いう通り、明るい晩のことですから、瞳を定めてよく見ればその輪郭はほぼわかる。成人にしては小さく、子供にしてはやや大きいのが、素裸《すっぱだか》にされて、四ツ手に結えられて、松の枝から吊下げられている。その頭が坊主であること――しかし、自ら求めて死に就いた、いわゆる縊《くび》れっ児ではなく、人のために強《し》いられて、やむなくこの憂目《うきめ》に逢ったものだということは、一目瞭然でありました。
「かわいそうに……」
 そこでお銀様も、それを助ける気になりました。お銀様なればこそ、これを助ける気にもなったので、世の常の女性にして、この時、この際、人を助けんとする余裕や、冷静などがあるものか……だが、その助ける手段方法については、多少の考慮を費さねばなりません。
 幸いに、縄の一端が釣瓶仕掛《つるべじかけ》にして、松の樹の幹にからげてあることを知りましたから、お銀様はそれを解いて、やがて徐《おもむ》ろに被害者を地面まで吊下ろしました。
 そうしておいて、縛《いまし》めを解いてお銀様は、その被害者の介抱に取掛りました。
 お銀様は活法《かっぽう》を知りません。急救療治の方法もよくは心得ておりません。介抱してまず耳に口をつけて、
「おーい」
と呼んでみました。
 その手答えは極めて遅く、程あって、軽い呻《うめ》きの声が起るばかりです。
「おーい」
 お銀様はなんとかこの被害者の名を呼んでみなければ、呼び醒《さ》ます声に力の入らないのを感じ、兄さん――と呼ぼうかと思ったが頭がまるい。坊さんと呼ぶには年が若い。そこで暫く言句に詰まっていたが、急にあわただしく、
「あ、これは――これは弁信さんじゃないかしら?」
 発止《はっし》と思い当ったのは、裂かれたる琵琶です。疑うべくも、疑うべからざる証拠のあるものを、何として今まで気がつかなかったのだろう。
「弁信さあん、しっかりなさいよ」
 お銀様は、砕けるほどかたく弁信を抱きしめて、あらん限りの声で叫びましたが、その声は今までと違って、天来の力が籠《こも》ってでもいたように――そこで、声と、力とが、神に通じたか、以前よりも、もっと頼もしい息づかいで唸《うな》りを立てました。
「弁信さん、しっかりなさい」
 お銀様は弁信をしっかりと抱きしめて、四方《あたり》を見廻しました。それは水を欲しかったのです。水があらば一口飲ませてやりたいものと、それで忙《せわ》しく、四方を見廻したけれども、そこには水のあろうはずがありません。
 しかし、少しも失望することはない。この松原の中を一散に走れば釜無川の岸である。そこには落ちて富士川となる水が潺湲《せんかん》と流れている。
 お銀様は、弁信を抱いたなりで、松原の中をひた走りに走りました。
 やがて釜無川の岸。
 お銀様は、その水を含んで飽くまで弁信の面《かお》に注ぎ、飽くまでその口に飲ませようとし、そうして三たびあらん限りの声で呼び醒《さ》ましました。
 この声に、眠りの醒めないということはありません。
 息を吹き返した弁信に、お銀様は自分の羽織を脱いで着せ、
「弁信さん、どうしたのです」
「ああ――」
 弁信は長く息を引いて、深く空気を吸い込み、
「ああ、わたしは助かりましたか?」
「助かりましたよ。どうしてこんな目に逢いましたの?」
「あなたはお銀様ですね」
「そうですよ」
「お話し申せば長うございますが……」
 鹿の子は生れて半時《はんとき》も経たぬ間に、もうひょこひょこと歩き出すそうですが、弁信は息を吹き返すと間もなく、平常《ふだん》の調子で、すらすらと話し出しました、
「ちょうど、この松原で……多分ここは松原の中だと思いますが、私の前へ一人の人が現われて申しました、お前はどこへ行く……私は旅をして歩きますと申しますと、一人で旅をして歩くには路用というものを持合わせているだろう、それをここへ出せ、とのことでございます……いいえ、左様なものは持合わせてはおりませぬ、と答えましたが、その人が聞き入れません。嘘をつけ……持っているだけ出さないと為めにならぬぞ、と、斯様《かよう》に申しますものですから、私が事を分けて、いいえ、ございませぬ、門付《かどづけ》でいただいた鳥目《ちょうもく》が僅かございましたのを、それで、甲府の町の外《はず》れで饂飩《うどん》を一杯いただいて、今は全く持合せがございませぬ……こう申しますと、その人がどこまでも、それは嘘だ、眼も見えないくせに、一人で旅をして歩くからには、必ずどこぞに路用の金を隠し持っているに相違ないと、斯様に私を責めまする故に、私はそれならば、私が、今ここで裸になってごらんに入れましょう、古人は曾無一善《ぞうむいちぜん》の裸の身と申しました、裸になった私の身体《からだ》をごらんになった上、たとえそこに一銭の金でも蓄えてありましたならば、私は生命《いのち》を取られても苦しいとは申しませぬ……こう言いまして、私は琵琶を下へ置いて、上なる衣《ころも》から悉皆《しっかい》脱ぎ去って、裸になって、その方に見せました……そうしますと、うむなるほど、無いものは無いに違いない、貴様はなかなか気の利《き》いた坊主だ、本来はこちらから身ぐるみ裸にしてやるべきものを、その手数をかけずに自分から進んで裸になったのは可愛ゆい奴だ、銭がなければ、二束三文にもなるまいが、この着物だけは持って行く……と申しまして、私の上から下までの着物――と申しましても襦袢《じゅばん》ともに僅かに三枚なのでございますが、その三枚を持って行こうとしますから、私が、もしもしとその方を呼び留め申しました、呼びとめて申しますのには、あなたがそれをお持去りになるのは仕方がございませんが、仕方があってもなくても、この私はあなたのなさることは、お留め申すだけの力は一切ございませんが、どうかお情けにはそのうちの上着の一枚だけをお返し下さいますまいか、せめてそれだけでもございませんと、これから一足も進むことができないのでございます……と、懇《ねんご》ろに頼みましたところが、その方はそれを一向お聞き入れ下さらず、馬鹿め……着物がなくっても足があるだろう、足があって一足も歩けないということがあるかと申されました、よろしうございます、それではお持ち下さいませ……私が悪うございました、世間には一枚の着物さえ持たない人もあるのに、これまで三枚の着物を重ねていた私は奢《おご》っておりました、その罪で、あなたのために衣をはがれるのは、罪の当然の酬《むく》いでございます、私から着物をお取りになろうとするあなたこそ、私以上に困っておいでになればこそでございます、求められずとも、私から脱いで差上げなければならなかったのを、たとえ一枚でも欲しいと申した私の心が恥かしうございます……とこう申しますと、その人が、いきなり私を足蹴《あしげ》に致しました。
 その方が、いきなり私を足蹴に致しまして、よく、ペラペラ喋《しゃべ》るこましゃくれ[#「こましゃくれ」に傍点]だ、黙って往生しろ――とそのまま行っておしまいになればよかったのですが、その方が、ふと私があちらへおいた琵琶に目をつけたものと見えまして、こりゃあ何だ、月琴《げっきん》の出来損いのようなへんてこなものを持っている――これもついでに貰って行く、と琵琶をお取上げになったようでしたが、夜目にも、私の琵琶が古びて、粗末なのを見て取ったのでしょう、持って帰ったって、こんな物、売ったところでいくらにもなるめえ、買い手があるものか……と呟《つぶや》きましたのを、私が聞いて、左様でございます、その品は、それを操るものには無くてはならぬ品でございますが、余の人が持ちましたとて、玩具《おもちゃ》にもなるものではございませぬ、もしできますならば、それはそのままお残し下さいませ、おっしゃる通りに着物はなくても、足があれば歩けないという限りはございませぬが、それがありませぬと、明日から世渡りに差支えまする、とにもかくにも、その一面の琵琶を私が抱いて参りますうちは、皆さんが……よし私の芸が不出来でありましょうとも、それに向って、いくらかの御報捨をして下さいますが、それがないと、私は全く杖柱を失ってしまいます、衣類はどなたでも御着用なさいませ、琵琶はおそらく私に限って、破れた一面の琵琶でも、私にお授け下さればこそ、その用をなすというものでございます……その琵琶だけは……とこう申しましたのが返す返すも、私の未熟ゆえでございます。すでに曾無一善《ぞうむいちぜん》の裸の身と申しながら、またも一枚の着物を惜しみ……一面の琵琶を惜しむ、浅ましい心、それが無惨に蹂躙《ふみにじ》られたのは、もとよりそのところでございます。まだツベコベと文句を並べるか……察するところ、貴様はこの月琴の胴の膨《ふく》らんだところへ、路用を隠しておくのだな、木にしては重味がありすぎる……大方、この胴の中へ、小判でも蓄えておくのだろう――と言ってその琵琶をメリメリと踏み壊しておしまいになりました。とかく、私の言うことが癪《しゃく》に障《さわ》ったものでしょう。それと、せっかく踏み壊して見た琵琶の胴の中にも、一文の蓄えもあろうはずはありませんから、その癇癪《かんしゃく》まぎれに、私の身を裸で一晩涼ませてやるといって、この通りの始末でございます。いいえ、それだけのことを覚えてはおりますが、別段、怪我といってはございませぬ、縛られる前に、蹴られたとき気が遠くなりました、それまででございます。いいえ、何とも思ってはおりません、さのみ悲しいとも思ってはおりません、あなた様に助けられても、さのみ嬉しいとは存じません……ああ、私も今までずいぶん苦労も致しましたし、命を取られるような目に逢ったことも幾度もございましたけれど、本当に裸の身にされたのは今宵が初めてでございます、この肉身一つのほかに、持てる物をことごとく奪われたのは今回が初めてでございます。いいえ、奪われたのではございません、持つべからざるものを持つが故に、召し上げられたのでございます……仏があの人の手を借りて、私の劫初《ごうしょ》以来の罪業《ざいごう》を幾分なりとも軽くしてやろうと思召《おぼしめ》して、かりに私の身から一切の持物を取っておしまいになりました。しかし、着物は剥ぎ取られましても、この心にはまだまだ我慢邪慢の膿《うみ》のついた衣が幾重《いくえ》にも纏《まと》いついておりまする。それを一枚一枚脱ぎ去って、清浄無垢《しょうじょうむく》の魂を見出した時に、初めて、その魂に着せる着物が恵まれねばなりませぬ、そのとき恵まれた着物のみが、本当に私の着物で
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