ございます。曾無一善の身には、世間の衣一枚は私の悩みでございました……」
弁信が例によって一気にここまで喋《しゃべ》ったのを、お銀様はどう聞いたか、
「弁信さん、私のうちへおいでなさい、あなたに着物を着せて上げますから……」
お銀様は弁信法師を伴って、故郷の有野村へ帰りました。
お銀様自身は故郷にそむいていたつもりだが、故郷はお銀様の来《きた》るを温かく迎えます。父の伊太夫は泣いて喜び、既往一切の我儘《わがまま》を忘れてくれました。
今まで、ことごとくわれにつらしと思っていた家中のすべてが、みな温かい心を雨のように降らして、そむいて来たものを、なついて来たもののように迎えるのは、多少お銀様のかたくなな心を解いたかも知れません。
しかし、その日は暗いうちにわが一間に入り、翌日は一切、日の目に自分の顔を見せず、無論、家中の誰にも面会ということをしないで、お銀様は、おのが部屋に籠《こも》りっきりであります。
それと反対なのは弁信法師で、もう、たどりついたその晩から、有らん限りのお喋りを発揮して、当るを幸いに相手として喋り続け、今朝も起きて、倉に所蔵の白無垢《しろむく》の小袖と、黒の法衣を着せられた時から、人に向って喋りました。
それを聞きつけたお銀様が、窓の向うから窘《たしな》めるように、
「弁信さん――これから、あなたの仕事として、東の土蔵に昔から蓄えている楽器の音《おん》を調べて下さい、そうして、使えるのは使えるように、使えないのは使えないように……」
底本:「大菩薩峠9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 五」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
2006年5月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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