づいて舞台へと進みました。
舞台の上は前の如く、仏頂寺がしきりに弁慶の身の皮を剥いでいる。仏頂寺の心では、この奴等を痛めて片輪にしてやるまでのこともなかろう、ただ後来の見せしめに、裸にしてやろうという料簡《りょうけん》だけらしい。だから芝居の方では、幕内の非戦闘員が総出で謝罪《あやま》っているのを仏頂寺は聞き流して、しきりに身の皮を剥いでいるが、本来、懲《こ》らしめのつもりだから、なるべく長い時間をかけて、兜巾《ときん》から下着まで、いちいち剥ぎ取ってしまおうとするまでで、彼等の謝罪を空念仏《そらねんぶつ》に聞いている。
しかし、芝居の方面ではそうは考えず、この上どんな憂目《うきめ》を見せられるのか、一刻も早く手を緩《ゆる》めてもらわなければならぬ。そこで言葉を尽して、いよいよ平身低頭をつづけていると、
「くどい!」
仏頂寺が眼を怒らして怒鳴りつけたので、二人の壮士も、
「くどい!」
あまり近く仏頂寺の傍へ寄った二三人を取ってひっくり返しました。その時です、
「御免よ……」
御苦労さまにも道庵先生が、ノコノコと出て参りましたのは――
そこへ出て参りました道庵は、何をするかと見れば、いきなり仏頂寺がくみしいた弁慶の傍へ寄って、持っていた扇子《せんす》でピシャリ、ピシャリと弁慶の頭を叩きはじめましたから、敵も味方も驚きました。第一、仏頂寺弥助が驚いてしまいました。見れば、相当の人品がないでもない老人、形はどうやら武芸者らしい形をしている。
「さあ、この贋物様《にせものさま》……ピシャリ、ピシャリ」
仏頂寺へ会釈《えしゃく》もなく、わが物気取りで弁慶を叩きはじめたから、仏頂寺も全く面食《めんくら》った形で、
「御老人……何をなさる?」
弁慶になり代ってこの無茶な老人の挙動を、仏頂寺が咎《とが》めなければならない羽目になりました。
「何をなさるとは知れたこと……実際、こういう贋者は俳優の風上にはおけぬ代物《しろもの》、若い者にばかり任せてはおけぬ、年はとったれども、一流の達人と呼ばれる道庵が成敗してくれる。海老蔵などとは以ての外、本来、その器量にあらざる者は、その名を遠慮すべきが人間の礼儀であること、このお侍のおっしゃることに少しも違いはない。されば茶道の紹鴎様《じょうおうさま》は、もと本姓が武田であったのを、その頃、武田信玄様という一世の英雄があったので、あんな偉い人と同姓では恐れ多いといって、わざと武野様と改めたのだ。曲亭馬琴様が正木大膳様を政木大全様と改めたのは、やはりその時に、お旗本に同名の人があったからそれを遠慮したのだ。名人、大家でなくとも、人間として、そういう礼儀がなかるべからざるものだ。それを貴様らの分際で、だいそれた名前を冒《おか》し、盲目《めくら》千人の世を欺こうとしてもそうは問屋が卸さぬ。この道庵の如きは武州熊谷以来、ちゃあんとそれを見抜いている。あのここな不埒者様《ふらちものさま》!」
と言って道庵は、痛くもない扇子で、無性《むしょう》にピシャリ、ピシャリと弁慶を叩きました。
仏頂寺が押えているところを叩くのだから、叩く方も骨が折れない代り、叩かれる方もあんまり痛くない。
しかし、この続けざまが幾つ続くのだかわからない。無性に叩き出し、しまいには一貫三百の調子で叩き出したから、仏頂寺も見ていられないで、
「御老人、いいかげんになさい」
と窘《たしな》めました。そこで道庵が扇子を引き、
「恕《ゆる》し難き奴なれども……」
と勿体《もったい》をつけて、そこで改めて道庵が、仏頂寺を煽《おだて》るような、宥《なだ》めるようなことをいって煙に巻き、とうとう弁慶を解放させて、一座へ引渡すことにまで運びました。仏頂寺とても、悪くこだわっているわけではない。今後を戒めて老人に花を持たせ、さっさと舞台を引上げて帰ることになって、道庵のとりなしぶりはとにかく鮮かな結果です。
そこで、見物も存外おだやかな解決を喜ぶ者もあれば、不足に感ずるものもあり、舞台の方では、それぞれ持場について、こうなっては明日からの興行はできない、今晩のうちにも、無事にこの土地を立退くのがりこうだという考えになり……今日の入れかけは別に半札を出せという見物もなく、ともかく、これで幕を引こうというところへ、よせばいいのに楽屋の奥から、周章者《あわてもの》が息せき切って飛び出して来て、舞台の真中に突立つや、顔の色を変えて、帰りかける見物の方に向い、
「百姓!」
と大きな声で怒鳴りましたから、見物はまた何事が起ったのかと足を停めました。
この周章者は、多分、よそから戻って楽屋へやって来たばかりのところでしょう。そうでなければ、今までの経緯《いきさつ》をよく知っていて、こんなところへ事壊しに飛び出すはずはないのだが、どうしたものか、せっかく納まった空気の中へ、
「百姓!」
といって、大きな石を投げ込みました。
いったん戻りに向った群集がその声で驚かされて、立ち止って、舞台の方を見ると、一人の気障《きざ》な男が顔色を変えて、
「百姓! 貴様たちに、勧進帳の有難味がわかってたまるか!」
と叫びました。その有様は、見物に向って喧嘩を売るような調子でしたから、一時は見物もみんな呆気《あっけ》に取られていると件《くだん》の周章者《あわてもの》は、いよいよ急《せ》き込んで、
「百姓! 手前《てめえ》たちに芝居がわかるか!」
これはあまりに聞き苦しい言葉ですから、誰もこれを聞いて胸を悪くしないものはありません。芝居の方でも、これは悪いところへ、よけいな口を利《き》いてくれたものだと心配し、見物の方ではようやく腹に据《す》え兼ねていると、
「百姓! 江戸の芝居が見たけりゃ、出直して来い!」
そこで立ったのが、例の川中島の上月一家の百姓たちでありました。
「ナニ、百姓がどうした?」
今まで坐っていたこの一座が、初めて総立ちになりますと、統領の上月が、必ずしもそれを留めませんでした。
「百姓!」
楽屋の周章者《あわてもの》は、真青《まっさお》になってまた罵《ののし》りかけた時、十余人の川中島の百姓たちが、気を揃《そろ》えて舞台の上へ飛び上ったから、またまた問題がブリ返りました。
「百姓がどうしたというのだ」
福島正則以来の気概といったようなものを持つ川中島の百姓たちは、早くもその気障《きざ》な周章者を取囲んでしまいました。これは上月も、あながちさしとめなかったものと見えます。
さてまた、劇外劇の引返しがある。
周章者《あわてもの》の考えでは、こうして自分が啖呵《たんか》を切れば、味方が総出で自分を助けてくれる――とでも頼みにしていたのでしょう。それが一人も出ないから、テレ切ってしまいました。
結局、その十余人の川中島の百姓たちが、件《くだん》の周章者《あわてもの》を引ッ捕えて、百姓呼ばわりを充分に糺問《きゅうもん》しました。
昔は天子自ら鍬を取って、農業の儀式をなされたものだと叫ぶ者もあります。
農は国の本だ、宝は「田から」である、土から出づる物のほかに、人間の生命《いのち》をつなぐべきものはない、と呼号する者もあります。
われわれは百姓に違いない、お前のような遊民とは違うぞ! と力《りき》むものもあります。
舞台の方に味方がないのに、見物の方に共鳴が多いのですから、周章者が、いよいよ狼狽《ろうばい》しました。
この周章者も、最初からの様子をよく知っていたならこういうこともあるまいに、外出していたところへ、芝居に騒動が持上って、見物が役者をとっちめたと聞いた早耳で、血相をかえて舞台へ飛んで来て、いきなり百姓呼ばわりをしたのが悪かったのです。
仏頂寺、丸山、壮士らは取合わず、元の座へ戻って、次の百姓問題を笑いながら見ていました。
道庵先生も、一時は、その不意に驚かされましたが、やがて事のなりゆきを見て、これはあの連中の処分に任《まか》しておいた方が面白かろうと、引返して見物席に納まる。
そこで十余人の川中島の百姓たちは、周章者を小突き廻して、こもごも百姓のいわれを詰《なじ》りはじめる。
周章者《あわてもの》は、決して農民を侮辱する意味で百姓といったのではない――と弁解する。侮辱する意味でなければ何の意味で、百姓呼ばわりをしたのだと押返す――口癖だという。悪い口癖だと口を抓《つね》る。
普通の百姓ではこうはゆきますまいが、信州川中島の百姓は、ことに福島正則以来を誇りとするこの部分の川中島の百姓には、強いのがおりました。この上月は帯刀の身分であった上に、連れて来た十余人の百姓たちも利《き》かない気であった上に、力もあれば、相当に剣術も心得ている。以前の時は傍観者の地位にいた上月も、百姓呼ばわりの悪態が聞捨てならず――指図はしないが、差留めもしなかったのです。
この十余人の百姓たちは、周章者を懲《こ》らしめのため、一つはまた百姓という名前のために、この男を捕えて、見物一同の前に失言の取消しと、謝罪をやらせようとする時、気の立った見物が、それだけでは承知しないで、今後の見せしめに肥桶《こえたご》をかつがせて、舞台を七廻り廻らせろと発議する者もありました。
それはあまりに酷《むご》い。しかし、百姓を侮辱するのは、つまり食物を侮辱するのである。食物を食うことのみを知って、その貴《たっと》きを知らない奴には、その有難味を思い知らせるがよい。そこで米俵を背負わせて、舞台から花道を七廻りさせるのが順だろう、という説も出ました。
そこで、この周章者は四斗俵を背負わせられて、猿廻しをするように、前後をたたき立てられながら、舞台から花道を廻らせられることになる。
一俵、少なくも十五貫はあるだろう。普通の百姓ならば、苦にならない荷物だが、この男にとっては堪え難い負担で、一足行ってはよろめき、二足行っては倒れるのを、起してやって、またたたき立てて歩かせる。
舞台から花道を一廻りする間に、ヘトヘトになってしまいました。
それで、七廻り目に、息も絶え絶えになって倒れたのを楽屋へ担ぎ込んで、水を吹っかけたりして力をつけました。そんなことで、芝居はさんざんな体《てい》になってしまったが、その夜のうちに荷物を纏《まと》め、翌日はこの一座が掻《か》き消す如く松本の市中から消え失せてしまいました。
道庵主従は、その足で浅間の温泉へ行き、鷹の湯へ泊りましたが、そこは宇津木兵馬も宿を取っているところ、まもなく仏頂寺、丸山、その他二人の壮士も押しかけて来ました。
その翌日、松本の市中から浅間の温泉までが、にせものの海老蔵の噂、
「いったい、狂言をやるにも、役者の名をつけるにも、いちいちお役所へ届けることになっているだろうが、あんなにせものはお役所で、ズンズンひっぱたいてしまえばよかりそうなもんだ……」
と言う者がある。
「蠅のようなやつらだから、お上《かみ》でも始末に困るだろう」
と言う者もある。
とにかく、仏頂寺弥助のしたことを悪くいう者はない。
今後、ああいうにせものが来たら、お侍の手を待たず、われわれでブッちめてしまう方がいい、と町内の青年団が力《りき》む。
川中島の百姓たちの利《き》かない気性を褒《ほ》めて、俵責めの手段を痛快なりとし、今後、生意気な芸人共はあの手段で行くがいいと唱え出す者もある。
いったい、芝居だとか、写し絵だとかいうものを見せるのは、淳朴《じゅんぼく》なる気風を害するものだから、今後一切あんなものは松本の市中へ足を入れさせないことにしたらどうだ、と提案する者もある。
それは極端だ――よい演劇や、よい写し絵は、われわれの労を慰めた上に、意気を鼓舞し、人間に余裕《ゆとり》をつけ、世間を賑わすものだから、よい演劇や、写し絵は、進んで歓迎してもよろしい。おれ[#「おれ」に傍点]は忠臣蔵の芝居を見て泣いたという者がある、楠公《なんこう》の写し絵を見て、急に親孝行になった者もあると言い出す。
本当の芝居好きは芝居好きで、また仏頂寺らのしたことに感謝する。ああいうにせものの面《つら》の皮を引ん剥《む》いてくれたので
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