勇ましいんでしょう、杉之助もよかったが、海老蔵はまたいいわ」
とみい[#「みい」に傍点]ちゃんがいう。
「立廻りのキビキビした男前のいいこと、千両役者だけあるわね」
とはあ[#「はあ」に傍点]ちゃんがいう。
「海老蔵もいいが、月形は熱心で、牧野の頭のいいところが感心だ」
などと、お茶っ葉の提灯《ちょうちん》を持つ折助《おりすけ》の若いのがいう。名優を随喜渇仰《ずいきかつごう》するもろもろの声を聞き流して、道庵主従はこの盛り場から町筋をうろつきました。
 しかし、いくら祭礼の夜とはいえ、松本の城下に、こんなお笑い草ばかり転がっているわけではありません。
 行くこと暫くにして、とある門構えの黒板塀の賤《いや》しからぬ屋敷の前へ来ると、道庵はお祭りの提灯の光で、門の表札を眺めて突立っていたが、
「占《し》めたッ!」
と叫びました。
 例によって米友には、何を占めたのかわからない。
「友様」
 道庵はその門構えの前に立って米友を顧み、
「友様」
「何だ」
「占めたぞ、今晩の宿が見つかった」
 米友にはいよいよわからない。ことによったら武者修行の手を行くのではなかろうかと気がついたが、どうもその家の構えは武芸者の構えらしくない。邸内は相当に広いようだが、道場らしい建物があるようにも思われません。
 ところが、道庵はまず以て穏かに事情を告げてしまいました。
「友様、犬も歩けば棒に当るといって、何が仕合せになるか知れねえ、これはそれ、わしが友達の家だよ、ホラ門札に松原葆斎《まつばらほうさい》とあるだろう、大将いまは江戸にいるが、出立の前に、松本へ行ったら、ぜひおれの家を訪ねてくれろ、手紙を出しておくから……そうして、おれの家を宿にして一通り松本城下を見てもらいてえとこういった、遠慮をするには及ばねえ、松原だの、浅田宗伯なんぞは、おれたちの仲間でも至極《しごく》出来のいい方だ」
 こういって道庵は、ズンズンと門内へ入り込んで行きます。
 松原葆斎は松本藩の医にして、儒を兼ねている。道庵と知り合いになったのは多分江戸遊学中。後、京都に遊学し、また長崎に行って蘭人について医を学び、今は江戸の聖堂に出て、その助教授をしている。
 浅田宗伯は同じく信濃の人――一代の名医にして、また豪傑の資を兼ねている。
 果して、松原の家では道庵の来訪を非常に喜んで、もてなすこと斜めならず。
 その翌日は、同業の人々が案内に立って、まず藩学|崇教館《すうきょうかん》に道庵主従を案内して、そのとき開かれた展覧会を見せてくれました。
 そこには松本を中心にして、概して信濃一国に関する古記古文書がある。諸名士の遺物がある。藩の殖産興業の模範といったようなものもある。
 道庵はそれをいちいち熱心に眼を通して歩き、「五人組改帳《ごにんぐみあらためちょう》」だとか、「奇特孝心者《きとくこうしんもの》の控《ひかえ》」だとか、松本新銭座の銭だとかいうものは、いちいち手に取って熟覧した上に、三村道益が集めた薬草の標本のところへ来ると、われを忘れて、
「有難い」
と合掌し、道益の自筆本「木曾薬譜《きそやくふ》」というのを見ると、伏し拝んでしまいました。
「これだ――これでなくちゃならねえ」
 道庵は三村道益の遺物の前で眼をしばたたいて、親の遺物に逢うように懐しみ、そうして言うことには、
「わしは別段、この道益先生を師として学んだわけでもなんでもねえが……その恵みというものは忘れるわけにはいかねえ。なぜといってごろうじろ、この木曾の薬草が今のように世に盛んに出て、貧民病者を助けるようになったのは、いったい誰のおかげだと思う。道益先生が考えるには、わしは代々この木曾で医者を商売にする家に生れたが、この木曾に産する薬草というものの良質にして、多量なることは、他国の及ぶところではねえ、もしこれをとって、年々に三都へ出して売り弘《ひろ》めた日には、少なくとも天下の薬価の三分の一を減ずることができる、それのみならず、木曾地方は山谷の間にあって、穀物を生ずることが少ない、そこで仕事のない人を山に入れてこの薬草を取らせ、それに多少の賃銭を与えることにすると、その人たちの生活の助けにもなる……と道益先生がこういって、それから自分も手弁当で、蓑笠《みのかさ》をつけて、数人の男をつれて山の中へ入り込んで、一草を見るごとに、必ずそれを取って嘗《な》めて、良いか悪いかを見分けて、その場所へいちいち目じるしを立てておいたものだ。その目じるしというのは、つまり後から取りに来る人のための目じるしだ。それのみならず、その草の根をまたいちいち掘って帰り、これを自分の庭園の中に植えて、山へ取りに行く人に実地を見覚えさせておいたものだ。なんとまあ親切な仕業《しわざ》じゃねえか――昔、支那には神農様というのがあって、百草の品々を嘗《な》めて、薬を見つけて、人間の疾病を救ったものだが、道益様のなすところはそれと同じことだ。ただ草を嘗めるというが、この草を嘗めて良否を見分けるというのは、なかなか度胸がなけりゃできねえよ。そうして道益先生は山に寝《い》ね、谷に転がり、木曾の山中を薬草を探し歩いて尾張に出で、名古屋へ行って銀若干を借りて、それで草を掘る道具類を買受けて、それを一人に一本ずつ与えて、また山中へ入れて薬草を取らせたのだが、仕事を与えられた人々は先を争うて山に入り、日々山の如く薬草を取って来た。それを粗製して年々三都へ売り出すことにしたものだから、もとより薬草の質がいい上に品が多い。今のように木曾薬草の名が天下に知れて、長者町の道庵までがそのおかげを被《こうむ》るようになったのは、みなこの道益先生の親切だ――医者に限ったことはねえ、天下の政治でも、実業界の仕事でも、すべてこの人類に対する親切気から湧いて来なけりゃ嘘だな。道庵なんぞもまことにお恥かしいはずのもので、何一つ社会へ親切気を示したことはねえのに、酒ばかりくらって、諸方をほうつき[#「ほうつき」に傍点]歩いているのは、古人に対しても、なんともハヤ相済まねえわけのものだが……道庵は道庵だけの器量しかねえんだから、どうぞ勘弁しておくんなさい」
 道庵がポロリポロリと涙をこぼして泣き出しましたけれど、この時は誰も笑うものはありませんでした。
 それから道庵は長沼流の「兵要録」の原本を見たり、義民多田嘉助の筆跡を見たり、臥雲震致《がうんしんち》が十四歳のとき発明した紡績機械の雛形《ひながた》を見たりして、あまり甚だしい脱線もなく、この展覧会を立ち出でました。
 これは初対面の人よりは、かえって附添の米友を驚かしたことで、事毎に何か脱線あるべきはずの先生が、ここでは一切脱線なしに、かえってその言う事が人々を感心させ、その見るところが玄人《くろうと》を敬服させ、案内する者をかえって案内して引廻すようなこともあり、そうして、それぞれ有志たちから受ける尊敬心を裏切らずに押して行く交際ぶりのまじめさが、米友をいたく驚かせました。これは本当の先生だ! 今まで嘘の先生と思っていたわけではないが、こうして押しも押されもせぬ先生で通れるのに、あんな馬鹿騒ぎをして、われと格を落す先生を気の毒と思わずにはいられません。
 やがて松本の城の天守閣の上まで見せてもらうことができました。
 壮大なる松本城天守閣上のパノラマ。あいにく、この日は曇天で、後ろのいわゆる日本アルプスの連峰は見えず、ただ有明山のみが背のびをしているように見えます。
 道庵は酔眼朦朧《すいがんもうろう》として眺める。米友は眼をみはって高い石垣の下の濠《ほり》を見下ろす。城を下って城を見上げて、説明を聞くと、加藤清正も熊本城を築く前に来って、この城を見学して帰ったという。天守閣の棟が西に傾いているのは、義民多田嘉助が睨《にら》んだからだという。
 道庵は、そこで、どうした風の吹廻しか七言絶句《しちごんぜっく》を三つばかり作って、同行の有志家たちに見せました。
 それは、いよいよ米友を驚嘆させて、おいらの先生は、あんな四角な文字まで並べられると、非常に肩身の広い思いをさせ、また同行の有志家たちも、即席に漢詩を作る道庵の技倆に感心をしたらしいが、詩そのものは道庵の名誉のためにここに掲げない方がよろしいと思う。道庵自身も、その辺は御承知のことと見えて申しわけたらたら、
「曲亭馬琴様は、あれほどの作者だが、悪い病には漢文を作りたがってな。漢文さえ作らなきゃあ馬琴様もいい男だが……人は得て不得意なものほど自慢をしたがるやつで……」
といって紙に書いて見せました。
 道庵の詩作に感心した有志家たちは、
「先生は武芸の方もおやりになるそうで……当地にはこれこれの道場もございますが、御案内を致しましょうか」
と来た時に、さすがの道庵がオイソレとは言わないで、苦笑《にがわら》いをしました。
 見も知らないところで、玄関から物々しく、武者修行の案内を求めてこそ、芝居もほんものになるが、身許《みもと》をすっかり知られてしまってからでは、気が抜けてしまって芝居にならない。そこで道庵もそれはいいかげんにごまかして、今日はこれからぜひ、浅間の湯へ行かなければならぬといって、なお松原の家でもぜひ、もう一晩というところを辞退して、浅間の湯へも案内しようというのを振り切って、二人はまた水入らずで松本の町を放浪しました。
 こうして急に息を吹き返したところを見ると、道庵も有志家連との交際を、かなり窮屈に感じてはいたらしい。
 そこで、歓迎から解放されて、自由な気持になり、今晩は浅間の湯へ泊って、ゆっくり休息をして、明朝は早立ちということになれば何のことはないのだが――町を通りながら、例の「市川海土蔵」を見つけると、道庵の病《やまい》が出て、昨晩の米友への約束を思い出し、
「さあ、どうでもこの芝居は見なくちゃならねえ……お前に対しての約束もあるからな――」
 とうとう道を枉《ま》げて、宮村座というのへ入り込んで、市川海土蔵一座を見物することになったのは感心しないことでした。

         二十五

 ちょうど、時刻が少し早かったせいか、さしも連日満員のこの大一座も、道庵主従をして、よい桟敷《さじき》を取らせ、充分に見物するの余裕を与えたことが、良いか、悪いか、わかりません。
 道庵主従が東の桟敷に、むんず[#「むんず」に傍点]と座を構えると、まもなく、土間が黒くなり出して、見るまに場内が人を以て埋《うず》まってしまいました。かくも短時間の間に、かくも満員を占める人気というものの広大なことに、道庵先生も面喰《めんくら》った様子であります。
 一通り場内を見廻して、道庵も人気の盛んなことに驚嘆しながら、酒を取寄せ、弁当を誂《あつら》え、さて番付を取り上げて、今日の番組のところを一通り見ておこうと大きな眼鏡をかけました。
 しかし、番付いっぱいに「市川海土[#「土」に傍点]蔵」が書いてあるものですから、どこに外題《げだい》があるのかよくわかりません。仔細に注意して見ますと、ようやく、岩見重太郎も、水戸黄門も、「海土[#「土」に傍点]蔵」の名前の下に小さくなっているのを見つけ、これでよかったと安心しました。
 米友は、自分は興行に使われたことがある。両国の大きな小屋で擬物《まがいもの》の黒ん坊にされていた経験があるから、多数の見物には驚かないが、自分がお客となって芝居見物をするのは今日が初めてですから、一種異様な感情に漂わされて場内を見廻しておりました。どこを見廻したところで、ここには米友の見知った面《かお》は一つもありません。
 こうしているうちにも、周囲は海老蔵の噂《うわさ》で持切りであります。海老蔵でなければ役者でないようなことをいいます。そうして、もう今までに五度も六度も海老蔵を見て、海老蔵と親類づきあいをしているように吹聴《ふいちょう》しているものも少なくはないようです。ところが米友は、海老蔵も鯛蔵もまだ見たことはない。自分は海老蔵や鯛蔵を見に来たのではなく、芝居というものを見に来たのだから、早く幕があいてくれればいいなと思いました。
 それに
前へ 次へ
全36ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング