御免なさい、もうしませんから」
「そうじゃない、お前のいま踊った姿を、ぜひもう一度見たいんだ、それを絵に取って置きたいと思うんだよ、叱るんじゃない、頼むんだよ」
「じゃ、やってみましょうか」
「やってごらん」
 そこで茂太郎は、再び面を冠って、両手に鈴と御幣とを持ち、裲襠《うちかけ》を長く引いて、座敷いっぱいに踊りはじめました。これを座敷へ上った白雲は、立ちながら目もはなさずに眺め入りました。
 この踊りは、一種不思議な踊りであります。仕舞のようなところもあり、かんなぎ[#「かんなぎ」に傍点]のような所作《しょさ》もあり、そうかと思えば神楽拍子《かぐらびょうし》のように崩れてしまうところもあって、なんとも名状のできない踊りだが、それでも、その変化の間に一つのリズムというものがあって、陶然として酔わしむるものがある。
 無論、この不思議な児童の、即興の、出鱈目《でたらめ》の踊り方には違いないが、その出鱈目のうちにリズムがあるから、白雲はかえってそれを、本格の踊りよりも面白いと思いました。
 そうしているうちに、白雲が膝を打って、
「これだ」
と言いました――白雲もまた、最初からこの般若《はんにゃ》の面が凡作ではないと見ていたのですが、この時になってはた[#「はた」に傍点]と思い当りました。
 これこそ与えられた絶好な画題だ。その不思議な踊り全体のリズムが、人を妙に陶酔の境へ持って行くのみならず、仔細に見ると無心な子供が、大人の長い着物を引きずっているところにまた無限の趣味がある。そうして、鈴と、御幣《ごへい》とを、無雑作《むぞうさ》に小さな両の手で振り翳《かざ》したところに、なんともいえないたくまざるの妙味がある。
 もしそれ、その冠《かぶ》った般若の面に至っては、白雲が日頃から問題にしていた名作で、銘こそないがその作物の非凡なる、どこからどうしてこの少年が手に入れたのか。そうして朝から晩まで、食事の時でも膝をはなさないで大切《だいじ》がっているのが訝《おか》しいほどである。白雲は、いつか、その面を取ってつくづくと、作と年代等を研究してみようと思っていたそれでありました。いま見ると、その名作の面影《おもかげ》がつくづくと人に迫るものがある。
 体のすべてが無我無心に出来ているのに、面そのものだけが、呪《のろ》いと、憎悪《ぞうお》とを集めた、稀代の名作になっている。
 これこそ求めても得られない絶好な画題だ、と白雲が意気込みました。
 この白熱の興味が、ついに白雲をして五日の間に「妖童般若《ようどうはんにゃ》」の大額を完成させてしまいました。その作たる、われながら見とれるほどの出来と見ましたけれど、白雲はそれに愛惜《あいじゃく》するの暇《いとま》を与えずに、早くもここを出立するの用意を整えてしまい、
「茂坊、さあ、今日は房州へ立つんだぞ」
「え、房州へですか、おじさん、今日?」
「そうだよ」
「房州というのは、あのおじさん、鋸山《のこぎりやま》のある日本寺の、お嬢さんのいる房州なの?」
「そうだとも」
「あたいを、その房州へ連れて行ってくれるの、今日!」
「うむ」
「じゃ、あたい、久しぶりで、あのお嬢さんに会えるんだ」
「会わしてやるとも」
「ほんとに夢のようね、おじさん、もしかして清澄のお寺へ入れちまうんじゃない?」
「そんなことがあるものか、さあ行こう」
「ああ、うれしい」
 少年は欣然《きんぜん》として勇み立ちました。
 この出立はむしろ出奔《しゅっぽん》に近い。白雲ほどのものがどうしてこうも慌《あわただ》しいのか、と怪しまれるほどに大急ぎで、絵が成ると共に装いを整え、その場で置手紙を一本書き――その手紙には、二枚の西洋画を特別に大切に保存しておくように書き残しただけで、自分の作のことは書かず。
 最初は茂太郎の手を引いて外へ出たが、少し歩くともどかしそうに茂太郎を取って、自分の背中に背負《しょ》い込んでさっさと歩み去りました。
 江戸橋の岸、木更津船《きさらづぶね》の船つきの場所に茂太郎を十文字に背負って、空を眺めて立つ白雲。
 澄み渡った秋の空に、白い雲が悠々《ゆうゆう》と遊んでいるのを眺めた時は、一味の旅愁というようなものが骨にまでしみいるのを感じました。
 ほんとうに自分こそ白雲そのもののような生涯。
 それでも旅から旅へうつる瞬間には、どうしてもこの哀愁を逃《のが》れることができない。哀愁に伴うて起る愛惜《あいじゃく》の念が、流転《るてん》きわまりなき人生に糸目をつける。
 妻子を顧みないのは、妻子に対して自分の愛惜があり過ぎるからだと白雲は、その時にいつもそう思います。
 愛惜があってはいけない。妻子眷族《さいしけんぞく》にも愛惜があってはいけない。自己の作物にも愛惜があってはいけない。愛惜の一念ほど自由放浪の精神を妨げるものはないと、いつもそれを感じながら、旅から旅を歩いているのであります。
「妖童般若」の図を描き上げて、こうして追い立てられるように出立したのは、自個《じこ》の作物そのものに、また愛惜を感じてはならないと思ったからでしょう。
 白雲は愛惜が自由放浪を妨げるということをよく知っている。それは自分たちの生涯は自由放浪のほかには立場がないと信じているためらしい。
 昔の出家は一所不住といって、同じところへは二度と休むことさえもしなかったそうだが、自分のはそれとは違いこそすれ、愛惜があっては心を自由の境に遊ばせることができない。だから、つとめて愛惜から逃れんがために旅から旅を歩いているところは、一所不住の姿に似ている。
 それほどならば、最初から妻子を持たなければいいではないか。扶養の義務がある妻子を持った以上は、浮世の義理に繋がれて行くの義務があるべきはず。妻子を持って同時に自由放浪に憧《あこが》れるのは、自分はそれでもよかろうが、妻子そのものが堪るまい。白雲は、そればかりは何とも申しわけをすることができない。申しわけが立たずに両頭を御《ぎょ》して行くことは、白雲としてはかなり苦しいことでしょう。白雲もやっぱり天上の雲ではない、地上の人間だ。

 幸いにして、このたびの船路には、お角の時のような災難もなく、駒井と乗合わせた時のような無頼漢もなく、海も空の如く澄み、且つ穏かな船路でありました。
 久しぶりで海に出た清澄の茂太郎、行住座臥《ぎょうじゅうざが》はなさぬ所の般若の面を脇にかかえて、甲板の上を初めはダクを打って歩いていたが、その足がようやく興に乗じて急になる時分に、帆柱の下で馬鹿囃子《ばかばやし》が湧き上りました。
 これは多分、木更津方面の若い衆が、江戸近在へ囃子を習いに来ての帰りか、そうでなければ江戸近在の囃子連が房総方面へ頼まれて行く途中でしょう。
 太鼓は抜きですが、笛とすりがねの音は海風に響いて、いとど陽気な気分を浮き立たせ、船に乗る者、さながら花車屋台《だしやたい》の上にあるような心持になりました。
「おや、ごらんなさい、あの子は踊っているよ」
 見れば艫《とも》の方から、左腕には般若《はんにゃ》の面を抱え、右の手を翳《かざ》して足拍子おもしろく踊りながらこちらへ来るのは、清澄の茂太郎であります。
 吾等笛吹けども踊らず……と誰がいう。
 船の人は総出で、茂太郎の踊りを見に集まりました。
 踊る人が出て来たので、囃し手の弾《はず》むのは自然の道理であります。
 今や、艫の方から踊りながら歩いて来た茂太郎は、甲板の真中まで踊り進んで来ました。船の中の人という人は、みんな集まってこの踊りを見ていますが、茂太郎は恥かしいという色も見せず、さりとて手柄顔もしないで、しきりに踊っています。
 囃子連の喜びは、喩《たと》うるに物なく、囃子にいよいよ油が乗ってくると、踊りもいよいよ妙に入るかと思われる。最初は囃子が人を踊らせたのに、今は踊りが囃子を引立てるらしい。
 興に乗じた船の人は、知るも知らざるも興を催して、手拍子を打ち、あわや自分たちも一緒になって踊り出しそうな陽気になる。
 初めは人が興味を求め、後には興味が人を左右する。
 清澄の茂太郎こそは小金ヶ原での群衆心理を忘れはしまい。
 興味が人を左右して、自分たちはそれを逃るるに、命がけを以てしなければならなかった苦《にが》い経験を忘れはしまい。
 それを忘れない限り、この踊りもいいかげんで切上げることを忘れはしまい。
 古人は、明哲《めいてつ》身を保つということを教える。
 果然! がらりと拍子をかえた茂太郎は、身を翻すと脱兎の如く船底をめがけて駆け込んでしまいました。
 興|酣《たけな》わにして踊り手に逃げられた船の客は呆気《あっけ》に取られ、囃子連も張合いが抜けたが、しかし船中の陽気は衰えたというではなく、人々はみんないい心持で酔わされたような気分です。

         二十二

 仏頂寺弥助と、丸山勇仙と、宇津木兵馬とが、相携えて松本の城下へ乗込んだ時、松本の城下は素敵な景気でありました。
 尋ねてみると今日から三日間の「塩市《しおいち》」だということ。なお「塩市」とは何だと尋ねてみると、これにはまた一つの歴史的の由緒《ゆいしょ》がある。
 甲斐《かい》の武田信玄と、越後の上杉謙信とが、この信濃の国で争っていた時分、信玄の背後をうかがう東海道筋から塩を送らない。甲斐も、信濃も、海の無い国。人民これがために苦しむの時、前面の敵、上杉謙信がこれを聞いて、武田に使を送って曰《いわ》く、吾と君と争うところのものは武勇にあって、米塩にあらず、南人もし塩を送らざれば北塩を以て君に供せん――といって価《あたい》を平らかにして信玄の国へ塩を売らしめたというのは、史上有名なる逸話であります。
 信濃の人、その時の謙信の徳を記念せんがために、この「塩市」があるのだという。
 事実は果してどうか知らん。例年は正月の十一日は大法会《だいほうえ》があるはずなのが、去年は諒闇《りょうあん》のことがあったり、天下多事の際、遠慮してこの秋まで延ばされたものらしい。
 そこで、いつものように花やかには執り行われないが、人気というものはかえって、こんな際に鬱屈《うっくつ》するものだから、底景気はなかなか盛んであるらしい。
 その盛んな市中を通り抜けて、浅間の温泉へ行き、兵馬を鷹の湯へ預けておいて、仏頂寺と丸山は城下へ引返し、二人は市中の景気を見ながら、各道場へ当りをつけ、兵馬は温泉場に止まって、その内部を探ろうという手筈《てはず》。
 宿に残された兵馬は、その晩、按摩を呼ぶことを頼みました。
 按摩を取るほどに疲れてもいないけれど、土地の内状を知るには、按摩を呼ぶが近道と思ったのでしょう。
 ほどなく、按摩が来るには来たが、それは眼の見えない男按摩ではなく、目の見える、しかも十四五になる少女でしたから、兵馬も意外の思いをしたが、それに肩を打たせて、さて徐《おもむ》ろにこの温泉場の内状、城下の景気、近頃の泊り客は如何《いかん》というようなことから持ちかけてみると、小娘の按摩は存外ハキハキした返答ぶり。
 特に「塩市」の賑《にぎ》わい隣国に並びなきことと、町の催し、諸国から集まる見世物、放下師《ほうかし》の類《たぐい》、その辺についての説明は委《くわ》しいもの。
 一段と念を入れていうことには、
「今年はちょうど、お江戸で名高い市川海老蔵さんという千両役者が参りました。昨日から宮村座で蓋《ふた》をあけましたから、ぜひ一度ごらんになっておいでなさいまし」
と勧める。そのことならば、仏頂寺、丸山の輩《やから》でさえも噂をしていた。だが、兵馬にとっては芝居どころではない。聞き流しているのを、小娘はいい気になって、海老蔵の偉いこと、千両役者の貫禄の大したものであること、この土地へも千両役者は滅多に来ないということ、果ては、わたしはまだ千両役者というのを一度も見たことがないと、聞かれもしないのに自白するところなどは、抜け目がなく、うっかり口車に乗ろうものなら、たちまち芝居を奢《おご》らせられる段取りになるかも知れない。
 ところで、兵馬は、千両役者にも、芝居に
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