と思う、江戸の下谷の長者町で……」
といったが、江戸の下谷の長者町あたりでこそ、道庵といえば、泣く児も泣いたり、だまったりするが、中仙道の軽井沢あたりへ来たんでは、あまり睨《にら》みが利《き》かないことを、この際、気がつかないでもないと見え、
「おれの匙《さじ》にかかって命を落した奴が二千人からある、人を殺すことにかけては、当時この道庵の右に出る奴は無《ね》え……人を見損なうと承知しねえぞ」
といって、起き上ると、ひょろひょろと駈け寄って、裸松の前袋に食い下りました。
 知らないほど怖《こわ》いことはない。裸松とても、道庵がソレほどの勇者であると知ったら、少しは遠慮もしたろうに。道庵としても、こいつが街道名代の悪《わる》で、五人力あるのが自慢で、人を見れば喧嘩を吹っかけるのが商売だと知ったら、少しは辛抱もしたろうに。何をいうにも、道庵は酔っています。この、ひょろひょろしたお医者さん体《てい》の男が、いきなり飛んで来て前袋へ食いついたから、さすがの裸松がその勇気に驚いてしまいました。少なくとも、自分を向うへ廻して腕ずくで来ようという奴は、上は善光寺平から、下は碓氷《うすい》の坂本までの間
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