る。
 夕方、二階へ明りをつけに行って、恭《うやうや》しく引きさがって、自分は長火鉢の前に頬杖ついて留守居していると、
「今晩は……」
と訪れの声がして、格子戸がガラリとあきましたが、お勢さんは立たないで、
「どなた?」
と言いました。多分|心安立《こころやすだ》ての仲間うちが来たものと思ったのでしょう。
「御免なさいよ」
 それは聞いたような声でしたけれど、女ではありません。
「お入りなさいな」
 お勢さんはまだ立たないで、返事だけをしました。
 そこで、障子をあけて、
「御免よ」
といって顔を出した男を見て、力持のお勢さんがハッと驚きました。
「まあ、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄《にい》さん」
「お勢ちゃんかい」
「なんて、お珍しいんでしょう」
 お勢さんは、大きな体を揺《ゆす》ぶって出て来ました。
「すっかり御無沙汰《ごぶさた》しちゃったね」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》かなにかで、玄冶店《げんやだな》の与三《よさ》もどきに、ちょっと気取って、
「時に、これはどうしたい」
といって親指を出して見せると、
「親方はお留守なんですが、まあお上りくださいましよ」
「留守かい」
「ええ、お留守でございますが、まあお上りなさいまし」
「すぐ、帰るかね」
「いいえ……ちょっと旅へお出かけなすったんですから」
「旅に出たって? おやおや」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、やや失望の体《てい》で上り口に佇《たたず》んでいると、お勢さんは、
「兄さん、どうなすったのだろうと、みんなで心配していましたわ」
「なにかえ、親方は旅に出たって、どっちの方へ行ったんだろう」
「箱根から熱海の方へ……」
「洒落《しゃれ》てやがらあ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は少々興醒《きょうざ》め顔をして、
「まあ、仕方がねえや、それじゃお留守にひとつお邪魔をすることにして……」
といいながら、ちょっと後ろを顧みて、
「兄《にい》や、さあ、おいで、いいから安心しておあがり」
 自分が手を引いて連れ込んだのは、今まで障子の蔭にいて、お勢には見えなかった一人の子供。
 それを見ると、お勢さんが重ねて驚いてしまいました。
「おや、お前は茂ちゃんじゃないの?」
「ああ」
「茂ちゃん、お前という子は、ほんとにどこへ行ってたんですよ」
 お勢は、まじまじと茂太郎の顔を眺めて、窘《たしな》めるようにいいますと、茂太郎は恥かしそうに、また怖気《おじけ》づいているように、がんりき[#「がんりき」に傍点]の後ろへ隠れて返事をしない。
「こういうお土産《みやげ》があるから、図々しくも、やって来てみる気になったのさ」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]は、早くも長火鉢の前に坐り込んでしまいました。
 茂太郎は、やはりその蔭に小さく坐って、もじもじしている。
「ほんとに、茂ちゃん、お前という子もずいぶん人騒がせね。お母さんはじめ、どのくらい、心配して探したか知れやしません。いい気になってどこを歩いていたの……?」
 お勢のいうことが、出戻りを叱るような慳貪《けんどん》になったので、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「まあ、そう、ガミガミいうなよ、なにもこの子が悪いというわけじゃねえや、連れて逃げたあの小坊主が、知恵をつけたんだから、何もいわず、元々通り、可愛がってやってくんな」
「なにも、わたしが叱言《こごと》をいう役じゃありませんが、あの人気最中に、逃げ出すなんて、親方の身にもなってみてもあんまりだから、つい……」
「ところで……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は長火鉢の前に脂下《やにさが》って、
「湯治と来ちゃあ二日や三日じゃあ帰れめえが、お勢ちゃんが留守番かい?」
「いいえ、わたしが留守番ときまったわけじゃありませんの、二階にお客様がおいでなさるもんですから……」
「お客様……」
といって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が変な顔をして、二階を見上げました。
「そのお客様てえのは……?」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の言葉尻が上って来るのを、
「絵の先生ですよ」
 お勢は何気なく答えたが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の胸がどうも穏かでないらしい。
「絵の先生が、お留守番なのかい?」
「お留守番というわけではありませんが、親方がお泊め申して置くもんですから、わたしたちが毎日隙を見ちゃあ、こうして入代り立代り、お世話に上るんですよ」
「へえ、なるほど……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の胸の雲行きが、いよいよ穏かでないらしい。
 というのは、このがんりき[#「がんりき」に傍点]という男と、お角とは、一時盛んに熱くなり合ったことがある。しかし、それはこういう輩《やから》の腐れ合いで、いくら
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