逆上《のぼせ》てもおたがいに目先の見えないところまでは行かない。お角も、再び一本立ちになって、これだけの仕事を切って廻すようになってからは、がんりき[#「がんりき」に傍点]のような男を近づけては、第一、使っている人たちのしめしにもならないし、がんりき[#「がんりき」に傍点]の方でも、少しは焦《じ》らしてみたりなんぞしても、もともと、女の尻をつけつ廻しつするほどの突《つ》ッ転《ころ》ばしではないのだから、自分の方からもあまり近寄らないようにしていたのを、それをいま来て見れば、二階には絵の先生というのを置いて、自分は湯治廻りとはかなりふざけている。
 第一、その絵の先生というのが癪《しゃく》にさわるじゃないか、ぬけぬけと二階に納まって、女共にちやほや[#「ちやほや」に傍点]されながら、脂下《やにさが》っている、色の生《なま》ッ白《ちろ》い奴、胸が悪くならあ――とがんりき[#「がんりき」に傍点]は、噛んで吐き出したくなる。
 それから、お角という阿魔《あま》も、お角という阿魔じゃあねえか……このおれが粋《すい》を通して足を遠くしていてやるのをいいことにして、色の生ッ白い絵描きを引張り込んで、抱《だ》いたり抱《かか》えたり、二階へ押上げたりして置くなんぞは、ふざけ過ぎている。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、こんなふうに気を廻して、すっかり御機嫌を悪くしてしまい、
「そういうわけなら、ひとつその絵の先生というのに、お目にかかって行きてえものだ」
と、旋毛《つむじ》を曲げ出したのを、お勢はそれとは気がつかないものだから、
「およしなさいまし、なんだか気の置ける先生ですから……」
「何だって……?」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は辰巳《たつみ》あがりの体《てい》で、眼が据《す》わって来るのを、お勢は、
「ずいぶん、きむずかしやのような先生ですから、おあいにならない方がようござんしょう」
 留めて、かえって油を注ぐようなことになってしまいました。
「おい、お勢ちゃん、あっしはね、虫のせいでその気の置ける先生というのに会ってみてえんだよ」
「え?」
「そりゃ、いい株の先生だね、人の家に寝泊りをしてさ、そうして別嬪《べっぴん》さんたちを、入代り立代りお伽《とぎ》に使ってさ、それできむずかしやで納まっていられる先生には、がんりき[#「がんりき」に傍点]もちっとん[#「ちっとん」に傍点]ばかりあやかってみてえものさ、どっこいしょ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、いきなりそこにあった提げ煙草盆をひっさげて、立ち上った権幕が穏かでないから、この時、お勢も初めて驚いてしまいました。
「まあ、お待ちなさいまし、兄さん」
 お勢は周章《あわ》てて、抱き留めようとしましたが、お勢さんの力で抱き留められた日にはがんりき[#「がんりき」に傍点]も堪らないが、そこは素早いがんりき[#「がんりき」に傍点]のこと、早くも、それをすり抜けて梯子段を半ばまで上ってしまったから、どうも仕方がない。
 この男は、喧嘩にかけては素早い腕を片一方持っている上に、懐中にはいつも刃物を呑んでいる。見込まれた二階の色男も堪るまい。
 それにしてもこの二階は、よく勘違いや、間違いの起りっぽい二階ではある。
 その時、二階では田山白雲が泰然自若として、燈下に、エー、ビー、シーを学んでおりましたところです。
「まっぴら、御免下さいまし……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、充分に凄味《すごみ》を利《き》かせたつもりで、煙草盆を提げてやって来るには来たが、
「やあ」
 一心不乱に書物に見入っていた目を移して、百蔵の方へ向けて田山白雲の淡泊極まる返答で、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵がほとんど立場を失ってしまいました。
「こりゃ色男じゃ無《ね》え――」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵のあいた口が、いつまでも塞がらないのは、この淡泊極まる待遇《あしらい》に度胆を抜かれたというよりも、また、その淡泊によって、いっぱし利かせたつもりの凄味が吹き飛ばされてしまったというよりも、ここにいる絵師が、たしかに色男ではないという印象が、百蔵をして、あっけ[#「あっけ」に傍点]に取らせてしまったのです。
 これは色男ではない――少なくとも、がんりき[#「がんりき」に傍点]が梯子段を上って来る時まで想像に描いていた色男の相場が狂いました。
 それも狂い方が、あんまり烈しいので、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどのものが、すっかり面食《めんくら》ってしまったのは無理もありますまい。そこでやむなく、
「御勉強のところを相済みません……」
 テレ隠しに、こんなことをいい、煙草盆をお先に立てて、程よいところへちょこなんと坐り込むと、白雲が、
「君は誰だい」
「え……わっ
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