大菩薩峠
流転の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)碓氷峠《うすいとうげ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二八|蕎麦《そば》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]
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一
宇治山田の米友は、碓氷峠《うすいとうげ》の頂《いただき》、熊野権現の御前《みまえ》の風車に凭《もた》れて、遥かに東国の方を眺めている。
今、米友が凭れている風車、それを米友は風車とは気がつかないで、単に凭れ頃な石塔のたぐいだと心得ている。米友でなくても、誰もこの平たい石の塔に似たものが、風車だと気のつくものはあるまい。子供たちは、紙と豆とでこしらえた風車を喜ぶ。ネザランドの農家ではウィンドミルを実用に供し、同時にその国の風景に情趣を添えている。が、世界のどこへ行っても、石の風車というのは、人間の常識に反《そむ》いているはずだ。しかし、碓氷峠にはそれがある。
[#ここから2字下げ]
碓氷峠のあの風車
誰を待つやらクルクルと
[#ここで字下げ終わり]
あの風車を知らない者には、この俗謡の情趣がわからない。
誰が、いつの頃、この石に風車の名を与えたのか、また最初にこの石を、神前に据《す》えつけたのは何の目的に出でたものか、それはその道の研究家に聞きたい。
一度《ひとたび》廻《めぐ》らせば一劫《いちごう》の苦輪《くりん》を救うという報輪塔が、よくこの風車に似ている。
明治維新の時に、神仏の混淆《こんこう》がいたく禁ぜられてしまった。輪廻《りんね》という仏説を意味している輪塔が、何とも名をかえようがなくして、風車といい習わされてしまったのなら、右の俗謡は、おおよそ維新の以後に唄われたものと見なければならないのに、事実は、それより以前に唄われていたものらしい。
しかし、昔も今もこの風車は、風の力では廻らないが、人間が廻せばクルクルと廻る。物思うことの多い若き男女は、熊野の神前に祈って、そうしてこの車をクルクルと廻せば、待つ人の辻占《つじうら》になるという。
宇治山田の米友は、そんなことは一切知らない。米友は風習を知らない。伝説を知らないのみならず、歴史を知らない。
歴史のうちの最も劃時代的なことをも知らない。この男は、死んだお君からいわせれば、素敵な学者ではあったけれども、まだ古事記を読んではいないし、日本書紀を繙《ひもと》いてもいないのであります。
ですから風車のことは暫く措《お》き、いま、自分がこうして現に立っているところの地点が、日本の歴史と地理の上に、由々《ゆゆ》しい時代を劃した地点であるというようなことには、いっこう頓着がないのです。
大足彦忍代別天皇《おおたらしひこおしろわけのすめらみこと》の四十年、形はすなわち皇子にして、実はすなわち神人……と呼ばれ給うたヤマトオグナの皇子が、このところに立って、「吾嬬《あがつま》はや」とやるせなき英雄的感傷を吐かれて以来、この地点より見ゆる限りの東を「あがつま国」という。その碓氷峠の歴史、地理の考証については、後人がいろいろのことをいうけれど、この「あがつまの国」に残る神人の恨みは永久に尽きない。けだし、石の無心の風車が、無限にクルクルと廻るのも、帰らぬ人の魂を無限の底から汲み上げる汲井輪《きゅうせいりん》の努力かも知れない。
上代の神人は申すも畏《かしこ》し――わが親愛なる、わが微賤《びせん》なる宇治山田の米友に於てもまた、この「あがつまの国」にやるせなき思いが残るのです。
それ以来、米友には死というものが、どうしてもわからない。死というものを現に、まざまざと実見はしているけれども、その実在が信ぜられない。
このたびの道中に於ても、米友が――若い娘を見るごとに、それと行き違うごとに、物に驚かされたように足を止めて、その娘の面《かお》を篤《とく》と見定め、後ろ姿をすかし、時としては、ほとんど走り寄って縋《すが》りつくほどにして、そうして、諦めきれないで、言おう様なき悲痛の色を浮べて立つことがある。その時にはさすがの道庵も、冷評《ひやか》しきれないで横を向いてしまうことさえある。
さればこうして高きところ、人無きところに立って、感慨無量に「あがつまの国」を眺めるのも無理はありますまい。
さて、米友をひとりここへ残しておいて、連れの道庵先生はどこへ行っている。
道庵は峠の町で少し買物があるからといって、米友を先に、この熊野の権現の石段を上らせておいたのですが――それにしても、あんまりきようが遅い。
道庵の気紛《きまぐ》れは、今にはじまったことではない
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