実際、白雲が知識の足らないために、芸術を理解することの妨げを痛感して、泥棒を捉まえて縄を綯《な》うよりも、モット緩慢な仕事を、この画面の前で始めたのは、事のそれほど、画面そのものが白雲の研究心を誘う力あるものと見なければならない。わかっても、わからなくても、この画には非凡な力があるものに違いない。
偶然は時として大きな悪戯《いたずら》をするものですから、もし、かくまで白雲を苦心煩悶せしめる後の方の絵が、十三世紀から十四世紀へかけての西洋の宗教画であって、それが何かの機会《はずみ》で浮浪《さすらい》の旅役者の手に移り、海を越えて、この女興行師の手に渡って、珍しい絵看板同様の扱いを受けつつ、卓犖《たくらく》たる旅絵師の眼前に展開せられたものとしたら、その因縁《いんねん》はいよいよ奇妙といわねばならぬ。
十三世紀から十四世紀の西欧の宗教画といえば、美術史の一ページを繙《ひもと》いたほどのものは、誰でも復興の幕を切って落したチマブエと、その大成者である大ジョットーを知らないものはない。当時にあっては、宗教画はすなわち美術の全部でありました。ジョットーは、そのいわゆるフレスコの大きなものを後世に残したほかに、小さな額面を作らないではない。今日でもその額面のほとんど全部はヨーロッパにも絶えているが、もしそれが偶然、こうしてこんなところへ落ちて来たとすれば、それこそ破天荒《はてんこう》の怪事――仮りにその謙遜な門弟の筆になり、後人の忠実な模写であるとしたところが、白雲の胸を刺して煩悶《はんもん》懊悩《おうのう》せしむるには充分でしょう。
今日も、明日も、白雲は額面の前で、エイ、ビー、シーを習い出し、頼まれた仕事を始める気色《けしき》がありません。
八
田山白雲の身の廻りのことは、三度の食事から、蒲団《ふとん》の上げ下ろしまで、痒《かゆ》いところへ手の届くように世話してくれる者があります。
それは主として、両国橋の女軽業の一座の手のすいた者が、入代り立代りして、親方からいいつけられた通りにするものですから、不足ということはありません。
もっとも、今では両国橋の一座は手代の方に任せて、お角は直接に立入らないことにしているが、後見としてのお角の眼が光らない限り、立ちゆかないことになっているのですから、お角のいいつけによって働く人は、白雲を尊敬して、それに侍《かしず》くこと、至れり、尽せりの有様です。
ところが、この絵描きは、豪傑の資質を備えていて、女軽業の美人連もうかとは狎《な》れ難いものがある。ことに親方からは絵の先生だと言い渡されていたのに、この先生は絵をかかないで、横文字を書いている。
ある時、当番の美人連の一人が、怖る怖る傍へ寄って来て、
「何をお書きになっていらっしゃいますの?」
「ドロナワだよ」
この返事で二の句がつげないでいると、白雲先生は、
「ドロナワといって、つまり、泥棒を捉まえて縄を綯《な》っているんだ」
「へえ……」
女は思わず白雲の手許を覗《のぞ》き込むようにしましたが、別段、縄らしいものも見えず、相変らずクチャクチャと横文字を書いているから、一切わけがわからないで、
「縄をお綯いなさるなら、麻を持って参りましょうか?」
と続いて、怖る怖る伺いを立てると、白雲が釣鐘のような大きな声で、
「あ、は、は、は……」
と笑い出したので、忽《たちま》ち吹き飛ばされてしまいました。
吹き飛ばされた美人連の一人は、両国橋の楽屋へ来て吐息をついて、
「いけないのよ、嘘よ、あんな絵描《えか》きがあるもんですか、ありゃ豪傑ですよ」
「どうして?」
「泥棒を捉まえるんですって」
「そうなの、わたしも訝《おか》しいと思った、絵描きだ、絵描きだ、といって、ちっとも絵を描かないじゃありませんか」
「絵描きじゃないのよ、親方も変り者だから、あんなことをいって、仮りに絵描きとして世話をして置くんでしょう、ほんとうは豪傑なのよ」
「わたしも、豪傑だろうと思ったのさ」
「だからね、わたしたちじゃお歯にあわないから、力持のお勢さんを、あのお客様の接待係専門にしてしまおうじゃないか」
こんなことをいって、力持のお勢さんがちょうど、当番の日。
この日、白雲は、どこかでローマ字綴りの仮名《かな》をつけたのを、半紙へ幾枚か墨で書いてもらって来て、それを練習している。その時分、市内を訊《たず》ぬればしかるべき蘭学や、英語の塾はあるべきはず。それに入学して師につくの順序を厭《いと》うて、どこまでも独学で行くの寸法らしい。凝《こ》り出すとこの男も寝食を忘れる性質《たち》で、力持のお勢さんが来ても脇目もふらない。
力持のお勢さんも、この人にはなんだか畏敬《いけい》が先に立つと見えて、お給仕の時も冗談が一ついえないで堅くなってい
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