この放浪画家も、事ひとたび、その天職とするところの事に当ると、かなり苦心惨憺する。今や、この第二の絵について、何事をかわかりたいとして、その一つをさえ、わからせることができないで苦心惨憺を続けている。
 わからないのは知識だけである。知識の鍵を握りさえすれば、芸術に国境はないのだから、いいものはいい、悪いものは悪いとして、当然自分の鑑賞裡にくだって来るに相違ないが、知識そのものがないから何とも判断のくだしようがない。
 芸術に国境は無いというありきたりの言葉を念頭に置きながら、田山白雲は東洋の芸術がわかって、西洋の芸術の知識の暗いことに、自分ながら不満と焦燥とを感じ、さて、芸術という流行語を繰返して、なんとなく擽《くすぐ》ったい思いがしました。
「芸術」という流行語の起りは今に始まったことではない。享保十四年の版本、樗山子《ちょざんし》というものの著述に「天狗芸術論」がある。これは剣法即心法を説けるもので、なかなか傾聴すべき議論がある。芸術の文字が流行語となりはじめたのは多分その辺で、その後、幕府が講武所を開いた趣意書のうちに、旗本の子弟、次男、三男、厄介に至るまで、力《つと》めて芸術を修業せねばならぬと奨励している。水戸中納言の弟、余九麿を一橋殿へ呼び寄せる時のお達し[#「お達し」に傍点]も、芸術のお世話ということで許されている。けれどもそれが今のように流行語となったのは、ある時、三日月という侠客が日本橋あたりで、勤番の侍と喧嘩をし、
「うぬ、三ぴん、待ちやあがれ」
と言って、その侍を十余人というもの、瓜《うり》か茄子《なす》をきるように、サックサックと斬り伏せたのが評判になると、弟子を連れてこれを検分に出向いたある剣術の先生が、
「よく斬りは斬ったが、芸術になっていない」
というと弟子共が、
「なるほど、芸術にはなっておりませんな」
と追従《ついしょう》をいったことから始まって、芸術になっている、いないということが、花柳界にまで流行語となり、猫も杓子《しゃくし》も芸術芸術といい出したものだから、ある男が、
「芸術とは何だね」
 トルストイでもいいそうなことをいい出して、彼等を狼狽《ろうばい》させたこともありました。
 夜になると田山白雲は、お銀様の寝た縮緬《ちりめん》の夜着蒲団《よぎふとん》の中へ身を埋めながら、そんなことを考えて笑止《しょうし》がり、問題の画面に向っては、厳粛な眼を据《す》えておりました。
 女興行師のお角の残して行ったものは、田山白雲にとっては由々《ゆゆ》しき謎でありました。しかも本人が、謎とも、問題ともせずして、投げつけて行ったところが奇妙です。
 これがために、田山白雲がさんざんに苦しめられているところは、笑止の至りであります。
 顧※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]之《こがいし》であろうとも、呉道玄《ごどうげん》であろうとも、噛んで歯の立たないという限りはないが、こればかりは、つまり、知識の鍵が全く失われているから、見当のつけようがないのです。
 そこで、一旦、白雲は戸外へ出てみました。古本屋|漁《あさ》りをして、もしや、それらしい横文字を書いた書物でも見つかったら――と何のよりどころもない果敢《はか》ない心頼みで、暫く街頭を散歩してみましたけれど、如何《いかん》せん、その時代の書店の店頭に、西洋美術の梗概《こうがい》をだも記した書物があろうはずがありません。
 よし、まぐれ当りに、蕃書取調所《ばんしょとりしらべしょ》あたりの払い下げの洋書類の中にそんなのがあったとしても、不幸にして田山白雲にはそれを読む力がありません――せめてあの駒井甚三郎氏でも近いところにいたならば、自分が東洋画に就《つ》いての意見を吹込んだ人に向って、逆に西洋画の見当を問うのは、いささか気恥かしいようでもあるが、尋ねてみれば相当の当りがつくかも知れないが、今のところでは、皆目《かいもく》、暗夜に燈火《ともしび》なきの有様で、いよいよ白雲の不満と歯痒《はがゆ》さとを深くするに過ぎません。そこで、街頭から空しく立戻って、再びかの油でない方の画面を篤《とく》と見入りました。
 知識は必ずしも芸術を生ませないが、知識なくしては芸術の理解が妨げられ、或いは全く不可能になるということを、白雲はここで、つくづくと思い知らされたようです。
「おれは、これから外国語をやらなくちゃならない、オランダでも、イギリスでもかまわない、どこか一カ国の西洋の文字を覚え込んでおかないことには……」
 白雲は暫く考えていたが、二度目に街頭へ出かけて行った時には、一抱えの書物を買い込んで来ました。見れば、それがみんな幼稚な語学の独《ひと》り案内のようなものであります。明日といわずに、白雲はその場でアルファベットの独修を始めてしまいました。
 
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