来たのを、記念の意味で太夫元《たゆうもと》にくれたものであります。
白雲が泰然自若として坐り込んで、睥睨《へいげい》している眼の前で、お角は自身そのカーテンを巻き上げると、
「うーむ」
といって白雲が長く唸《うな》りました。
唸りながら、白雲は両の拳を両股の上へ厳《いかめ》しく置いて、
「うーむ」
と首を傾けた。その絵は、白雲の眼光を以てしても、急には届きかねるものでありました。
「これは子安観音《こやすかんのん》の絵だ」
画様を説明すれば、まずそういったようなものでしょう。さいぜんからお角が、再々キリシタン、キリシタンを口にしたればこそ、これがいわゆるキリシタンの油絵というものかと思われる。
けれども白雲の見るところは、それが観音であろうとも、キリシタンであろうとも、信仰の上から見比べて、かれこれと考えているのではなく、この男はこの時、初めて本物の油絵というものを見ました。
実は今までも、再々油絵というものを見ているのです。西洋の絵の面影《おもかげ》も霞《かすみ》を透して珠《たま》を眺めるような心持で堪能《たんのう》して見ないということはありません。第一期|天草《あまくさ》の前後のことは知らず、中頃、司馬江漢あたりの筆に脱化された洋画の趣味も捨て難いものだと思いました。また最近に於て、外国の書物の挿画《さしえ》として見たり、また写真銅版等の複製によって覗《のぞ》いてみたりした洋画に、驚異の念を持たせられたことも一再ではありません。
「そうだ、西洋の絵の長所は形似《けいじ》だ、形を似せることに於ては、われわれはきざはし[#「きざはし」に傍点]しても及ばないかも知れない、この遠近、この人体、空気の色、日の光の陰影をまで、かくも精巧に現わすのは、絵というよりもこれは技術だ、形似が絵というもののすべてでない限り……」
そこで白雲の面《おもて》には悠然たる微笑が湧き、墨の一色を以て天地の生命を捉えるの芸術を、讃美礼拝するの念が起る。
それが、今、こうして本物の油絵を見ているうちにわからなくなる。
わからないのは、これによってあえて自信が崩れたわけではないが、これは今まで見た油絵とは少しく勝手が違う……なるほど、素人目《しろうとめ》で見て、これをこのままあの観音へ納額してみたらば、さだめて異彩を放つであろうと思うのも無理がない――こういった絵を納めてみたいと願うのは、あながち奇を好む素人考えとのみはいわれない。ただに浅草観音の納額として見るにとどまらず、この絵をとって、現代のあらゆる流派の展覧の中へ置いて見たら、どんな感じがするだろう、と白雲はそれを考えました。
そうして、次にその一枚を取除くと、従って現われた第二枚。
「うーむ」
それを白雲は、またも長く唸《うな》って眺め入り、
「どうも、わからない、珍しい見物《みもの》だ」
と繰返して呟《つぶや》きました。
いよいよわからなくなりました。これは以前の油絵とは違っているが、たしかに一種の絵具で描いてあります。そうして画風も全く変っており、時代も、それよりはずっと古いのみならず、絵の輪廓[#「輪廓」はママ]の要部が線で描いてあることが、白雲を驚かせました。
西洋画の驚異は色と形である、東洋画の偉大は線と点とである、というように信じきっていた白雲の眼には、この線と色とを調合した異風の絵に会して、わからなくなったのも無理はありません。時代でいえば十四世紀から十五世紀頃の物でしょうが、それすら白雲にはわからない。
その翌日から田山白雲は、右の一間に納まって、二つの洋画の額面をかたみがわりに睨《にら》めておりました。
お角が、お梅と、男衆とを連れて、熱海へ旅立ったのは間もないことです。
留守中の万事は抜かりなく整えておいて、別に若干の金を白雲のために供《そな》えて立ちましたが、その後で封を切って見ると、五十両あったので、さすがの白雲も、この女の気前のよいことに、ちょっと度胆を抜かれた形であります。そこで、その金は、そっくり故郷の足利にいる妻子に送り届けることにしておいて、またも例の額面と睨めっこです。
油でない方の一方の額が、どう睨めてもわからない。時代がわからない。描き手がわからない。描かれている人物がわからない。ただわかるのは、線と色との調和と、それから描かれた人物の陰深にして凄惨《せいさん》な表情。そうして見ているうちに、温和があり、威厳がある半面の相。
知られる限りの道釈のうちにも、英雄の間にも、この像に当嵌《あてはま》るべき人物を見出すことができない。世間には、わかってもわからなくても、どうでもいい事がある。ぜひともわかりたいことがある。どうしてもわからせねばならぬ事もある。すべてに於て極めて無頓着な田山白雲。時としては飢えに迫る妻子をすら忘れてしまう
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