が残っているから、いつかまたこの世へ生れて来るんだ、しっかりしろ」
 道庵先生は事実そう信じているのだか、米友があまりの生一本の鬱《ふさ》ぎ方を慰めるつもりの気休めだか知らないが、とにかく、こういう霊魂不滅説を説いて聞かせたことがあります。
 米友は、今もそれを、まともに思い出しているのです。こういう男の常として、一を信ずれば、十まで信ぜずにはおられません。
 それとは知らず道庵先生は、宵《よい》からグッスリと寝込んでしまって、翌朝、例刻には眼を醒《さま》したけれども、昨日《きのう》の疲れもあるし、第一、水をかけられた着物からして、乾かさねばならないから、モウ一日一晩、軽井沢に逗留《とうりゅう》することになりました。
 ところが、朝飯が済むと、もうノコノコと問屋場へ出かけて来て、裸松《はだかまつ》の診察にとりかかりましたものですから、宿《しゅく》の者が、いよいよ気の知れない先生だと思いました。
 それにも拘らず、先生は、裸松の病床でしきりに診察を試みながら、居合わす宿役人らをつかまえて気焔を上げているのは、宿酔い未だ醒めざるの証拠であります。
 一方、宿に残された宇治山田の米友は、一旦は起きたけれども、やがて荷物を枕に、身をかがめて横になってしまいました。多分、昨夜の夜もすがらの煩悶《はんもん》が、心をものうくしたものでしょう。この男は大抵の場合には、夜具蒲団《やぐふとん》を用いないで寝られる習慣を持っている。時として、せっかくの夜具蒲団をはねのけて、横になったところを寝床とするの習慣を持っている。
 今もまた、こうして畳の上へゴロリと横になっていると、夜来の疲れが多少廻って来たものと見えて、いつかうとうとと夢路に迷い入りました。
 その時の夢に、米友は故郷の間《あい》の山《やま》を見ました。自分の身が久々《ひさびさ》で故郷の宇治山田から間の山を廻《めぐ》っているのを認めました。
 久しぶりで、もう帰れないはずと思っていた故郷の土を踏んでみても、その土が温かではありません。相も変らず間の山は賑《にぎ》やかですけれども、その賑やかさが、少しも自分の身に応《こた》えて来ないのを不思議と思いました。周囲は花やかなのに、空気が冷たく自分の身に触れるのを、米友はじれてみました。
 故郷の地ではあるのに――こうも冷たい空気が流れて、通るほどの人が、みんなつれない色を見せる。さすがの米友も、誰を呼びかけて、何をいおうとの心も失せ、参宮道の真中の榎《えのき》の大樹の下に立つと、何かいい知れず悲しくなって、その大樹に身を寄せて面《おもて》を蔽《おお》うているうちに、いつしか、しくしくと泣いている自分を発見しました。
「君ちゃんがいねえ……ムク、ムクの野郎もいねえ……ムクやい、ムクはいねえのかよう」
と米友は、声立てて呼んだけれども、手拭を後ろに流し、黄八丈の着物に、三味線を抱えたお君の姿も出て来ない。そのあとに、影身のように附添うたムクも現われては来ない。間の山の盛り場では、提灯篝《ちょうちんかがり》の火が空を焦《こが》して、鳴り物の響きが昔ながらに盛んに響いて来るのに、自分の見たいと思う人と、聞きたいと思う声だけは、一つも現われて来ない。そこで米友は、
「ムク……おいらは今、間の山に来ているんだぜ、誰も迎えに出て来ねえのかい?」
 米友は天を仰いで号泣しようとする、その大榎の樹の枝に、一団の青い火が、上ろうとして上らず、下ろうとして下らないのを認めました。
「あれが魂というものだな」
 米友は身を躍《おど》らして、その青い一団の光を捉えようとする途端に、大風が吹いて来て、その光を大空へ吹き上げたから、ハッとして眼を醒《さ》ますと、自分の転寝《うたたね》をしていた身体の上へ、誰かふわりと掻巻《かいまき》を着せてくれた人がありました。
「風邪《かぜ》を引きますよ」
 障子のところに立っている女の姿を見ると、米友はムックリと起き直って、
「お玉さん!」
「ホ、ホ、ホ、どうもお気の毒さま、つい、お邪魔をして済みませんでした」
「玉ちゃん、いいからお入り」
「はい」
「ここへお入り、話があるから」
 米友は、ほとんど猛然として起き上って来て、お玉の袖を取りました。
「こわい人――この人は――」
 お玉は笑いながら、米友に引かるるままに、袖を引かれて来ました。

         六

 女軽業の親方のお角さんは、お気に入りのお梅ちゃんを連れて、浅草の観音様へ参詣の戻り道です。
「梅ちゃん、何ぞお望み、今日はなんでも好きなものを買って上げるから……」
「お母さん、千代紙《ちよがみ》を買って下さいな」
「千代紙――? ほんとにお前も子供だねえ」
 お梅の子供らしい望みを笑いながら、お角は雷門跡から広小路へ出ました。
 お角もこのごろは、痛《いた》し痒《かゆ
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