「ただでは見せて上げないよ」
といって、高いところの窓を、ハタと締め切ってしまいました。
「そりゃ、あんまり胴慾《どうよく》な……」
「お玉さん、お湯の中で水入らずに、しっかりみがいてお上げよ」
 窓を締められた弥次は、暗いところでなお騒々しい。
 その時、米友は立ち上って、
「もういいよ、おいらは湯から上っちまわあ」
 弥次のうるさいのに堪えられなくなったのでしょう。ぷりぷりしながら立って風呂へ入り、首だけを出し、思わず女の姿を眺めていたが、急に、
「あ……お玉!」
と言って舌をまきました。
 米友が渾身《こんしん》から驚いたのは、この女の面影《おもかげ》がお玉に似ていたからです。名をさえそのままでお玉というのは……いうまでもなく間《あい》の山《やま》以来のお君の前名でありました。その米友の異様な叫び声を聞いた女は、こちらを向いて、嫣乎《にっこり》と笑い、
「あら、もう、わたしの名を覚えて下すったの、嬉しいわ」
「お前の名は、お玉さんていうんだね」
「ええ……玉屋のお玉ですから覚えいいでしょう、忘れないで須戴な」
「あ……」
 米友は吾を忘れて感動しました。その時、外で弥次馬が、
「お安くねえぞ、御両人……」
 その声を聞くと米友が真赤になって、地団駄を踏みました。
 それ以来、あらゆる年頃の女がお君に見えてたまらない。幼ければ幼い時の面影に、年ばえは年ばえのように、婆は婆のように、宇治山田の米友には、夢寐《むび》にもその面影を忘るることができないでいたのに、ここへ来て、初めて正真のお玉を見ることができた。名さえそのままではないか……これがお玉でなくて誰だ。
 米友は口が利《き》けないほどに感動したけれど、それがほんとうにお君に似ているか、いないかは問題です。
 可憐なる米友は、その晩一晩中、このお玉の姿に憧《あこが》れてしまいました。給仕に来たのもこの女、床を延べに来たのもこの女。
「お玉さん……お前はな……」
と言ったきり、米友には口が利けませんでした。
「ホ、ホ、ホ、御用があったら、いつでもお呼び下さいな、この向うの突当りの部屋に休んでいますから。夜中でもかまいませんよ」
と女はあいそうよくいいましたが、不幸にして米友には、それ以上に挨拶をすることができませんでした。
 そこで、その夜もすがら、米友が煩悶《はんもん》を続けました。
 道中の旅籠屋《はたごや》の飯盛女《めしもりおんな》――昔はこれを「くぐつ」といい、今は飯盛、あるいは宿場女郎という。東海道筋でいってみると、五十三駅のうち、官許の遊女屋のあるのは駿河の弥勒町《みろくまち》だけで、あとは品川でも、熱田でも、要するに飯盛女――駅という駅に、大小美醜の差別こそあれ、この種類の女の無いというところはない。これを美化すれば大磯の虎ともなり、詩化すれば関の小万ともなる。東海道名所|図会《ずえ》の第五巻に記して曰《いわ》く、
[#ここから1字下げ]
「駅路の遊君は斑女《はんじょ》、照手《てるて》の末流にして今も夕陽《ゆふひ》ななめなる頃、泊り作らんとて両肌《もろはだ》ぬいで大化粧。美艶香《びえんかう》には小町紅《こまちべに》、松金油《まつがねあぶら》の匂ひ濃《こま》やかにして髪はつくもがみのむさむさとたばね、顔は糸瓜《へちま》の皮のあらあらしく、旅客をとめては……」
[#ここで字下げ終わり]
云々《うんぬん》と筆を弄《ろう》しているが、名所図会という名所図会には、この駅路の遊君を不美人に描いたのは一つもない。ここの玉屋のお玉さんが、死んだお君に似ていたか、いないかは疑問ですけれども、玉屋の看板を背負って立つだけに、この駅では、指折りのあだっぽい女であったことは疑いがないらしい。
 水性《みずしょう》のお玉さんは、誰にも愛嬌を見せるように、米友にも最初から愛嬌を見せていました。というよりは、勇者としての米友を取持つ役を、ほとんどお玉さんひとりがとりしきってやっていたようなものですから、一緒に寝ようといえば寝もするし、夜もすがら語り明かそうといえば語り明かしもするし、どうでも米友の註文通りになったはずなのです。
 この道中で、ある時、道庵がこういって米友を慰めたことがあります、
「友様……人間には魂と肉体というものがあって、肉体は魂について廻るものだ、肉体は死んでも魂というものは残る。早い話が、家でいえば肉体は、この材木と壁のようなものだ、たとえばこの家は焼けてしまっても、崩れてしまっても、家を建てたいという心さえあれば、材木や壁はいつでも集まって来るぞ。で、前と同じ形の、同じ住み心地の家を、幾度でも建てることができるぞ……いいか、その心が魂なんだ。だから人間に魂が残れば、死んでもいつかまた元通りの人間が出来上って来る、だから何も悲しむがものはねえ……お前の尋ねる人も魂
前へ 次へ
全88ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング