っぱりあの先生は、気の知れない先生だという説が多く、また一方には、いかさま、その従者であり弟子である小童でさえ、あのくらい強いのだから、主人であり、先生であるあの飲んだくれの強さは、測ることができないのだと、真顔にいうものもありました。それが、どういう拍子で間違ったか、あの先生は、あれはつまりお微行《しのび》の先生だ、ああして浮世を茶にしてお歩きなさるが、実は昔の水戸黄門様みたいなお方に違いないと言い出すものがあると、
「なるほど……」
 すべてが、なるほどと頷《うなず》いて、それから道庵に対する待遇が、いっそう重いものになりました。
 いつもこういう際における道庵は、転んでもただは起きない結果をつかむ。
 道庵は、苦もなく水戸の黄門格にまで祭り上げられたが、その従者たる米友は、隠れたるお附添の武術の達人……特に子供のうちの鍛練者を択《えら》んでお召連れになったのだろうという想像や好奇心で、米友を見たいというもの、もう一度見直したいというものが、玉屋の家の前に溢れています。
 そのうち、誰が発見したか、裏手の方から流言があって、
「お坊っちゃんが、今、お湯に入っているところだ」
という報告がありました。
「それ行って見ろ!」
「お坊っちゃんが、お湯にはいっている」
 お坊っちゃんとは蓋《けだ》し、宇治山田の米友のことでしょう。薄暮にその姿を見ただけのものは、誰も子供だと思わぬものはない。その主人を黄門格にまで祭り上げた以上は、その従者をも相当の格に扱わなければならない。さりとてお侍ではなし、兄さんと呼ぶのは狎《な》れ過ぎる。本名は聞いていず、やむを得ず、米友を呼ぶにお坊っちゃんの名を以てしたのは、一時の苦しがりでありましょう。
 そうして、同勢が、目白押しに湯殿の方へ押しかけて、窓や羽目の隙間にたかって、先を争って、この小勇者の姿を見直しにかかりました。
「違わあ、子供じゃねえ……」
 まず覗《のぞ》いて見たほどのものが、風呂桶に浸《つか》っている米友の顔を、風呂行燈《ふろあんどん》の光で眺めて、案外の叫びをなしました。
 子供でもなければ、お坊っちゃんでもない、まさに老人である。いや老人かと思えば子供である。何とも名状すべからざる奇怪なる顔貌。まるい目をクルクルとさせて、
「覗いちゃいけねえよ」
 その声を聞いて、
「あ……」
 窓へのし[#「のし」に傍点]上っていた二三人が崩れ落ちて、
「お化けだ……」
といいました。
 その時、風呂桶から全身を現わして流しに立った米友。身の丈は四尺、風呂桶の高さといくらも違わない。
「やっぱり子供だよ」
「いい身体《からだ》だなあ」
とドヨみ渡って感心したものがありました。その鉄片をたたきつけたような隆々《りゅうりゅう》たる筋肉、名工の刻んだ神将の姿をそのまま。その引締った肉体を見たものは、面貌の醜と、身長の短とを、忘れてしまいました。
 米友が風呂桶から流しへ出て、板へ腰をかけて洗いはじめた時に、さいぜん道庵先生を、桝形《ますがた》の茶屋から迎えてこの宿へ連れ込んだ、あだっぽい女が湯殿へ入って来て、
「お客様、お流し申しましょう」
と言って、かいがいしく裳《すそ》をからげて、米友の後ろへ廻りました。
「済まねえな」
 米友はぜひなく、その女に背中を流してもらっていると、外の弥次《やじ》が、
「お玉さん、しっかりみがいて上げてくんな」
と弥次りました。
「お黙りなさい」
 その女が叱ると、
「いよう――」
と妙な声を出し、
「可愛い坊っちゃんを、大事にして上げてくんな」
「うるさい、あっちへ行っておいで……」
「お玉さん、思い入れて磨いておあげ……そうして坊っちゃん、今晩はお玉さんの懐ろに入ってゆっくりお休み」
「あっちへ行っておいでってば――」
「やけます……」
「いよう! 御両人……」
 外が、無暗に騒々しいから、米友がムッとしました。
「お客様、お気にかけなさいますな、みんないい人なんですけれど、口だけが悪いんですから」
「ばかな奴等だなあ……何が面白くって、外で騒いでやがるんだ」
 米友が面《かお》を上げて窓の上を睨《にら》むと、そこにはいくつかの首が鈴なりになっている。
「兄さん――お前は子供なのかい、それともお爺《とっ》さんなのかい?」
 その鈴なりの顔の一つが叫ぶと、続いて他の一つが、
「裏から見れば子供で、表から見ればお爺《とっ》さんだから、これが本当の爺《とっ》ちゃん小僧というんだろう」
「ばかにしてやがらあ……」
といって米友が横を向くと、
「だけれど、強いなあ、お前さんは強い人だなあ――なり[#「なり」に傍点]は小さいけれど、身体《からだ》が締ってらあ――」
と讃美の声を上げるものもありました。米友は、もう横を向いたきりで取合わないでいると、女がいきなり立って行って
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