して、裸松を睨《にら》みつけていましたが、ブンブン振り廻して来る丸太の鋭鋒が当り難しと見たのか、じりじり後ろへさがるものですから、見ているものが気を揉《も》み出すと、ウンと踏みとどまった米友が、歯切れのいい調子で、
「やい、裸虫、ものになっちゃあいねえぞ」
と嘲笑《あざわら》うのを聞きました。
この場合、米友にとっての幸いは、弥次と見物とに論なく、すべてが米友の同情者であって、裸松が不人気をひとりで背負いきっていることでありました。
同業者の馬方や駕籠舁《かごかき》でさえが、裸松に味方する者の一人も出て来なかったことは勿怪《もっけ》の幸いでした。まかり間違えば、以前、甲州街道の鶴川で、多数の雲介《くもすけ》を相手にしたその二の舞が、ここではじまるべきところを、敵に加勢というものが更に出て来ないから、米友としては自由自在にあしらいきれるので、それでこの男には似気《にげ》なく後ろへさがりながら、「やい、裸虫、ものになっちゃあいねえぞ」
と嘲笑ったものでしょう。
米友の眼から見れば、法も、格も心得ていない奴が、力任せに、血迷って、無茶苦茶に丸太ん棒を振り廻して来るだけのものだから、打ち落そうとも、突き飛ばそうとも、どうとも思うままに料理ができるはず。それを知らないから、見物は気を揉み出したものと見える。
しかし、見物に気を揉ませたのも、そう長い間のことではない。暫くすると、丸太は地上へ飛んで走り、大の男は三たび、地響きを打って地上へ倒れたまま、凄《すさま》じい唸り声を出して、起き上ることができません。
「先生!」
そこで米友が道庵を呼びかけますと、道庵は泰然自若として、前に自分が重し[#「重し」に傍点]にかけられた切石の上に腰をかけ、片手には、最初に問題を引起した提灯をひろい上げて、采配《さいはい》を振るように振りまわし、
「友様、御苦労……」
と叫びました。
問題も、事件も、それで、すっかり解決がついたのです。道庵は凱旋将軍の態度で、意気揚々として宿屋の方へ引上げると、みんなが迎えに出て、早くも二人を取囲みました。
その有様は、土地の疫病神《やくびょうがみ》を退治してくれた勇者をもてなすの人気ですから、二人も安心です。
事件はこれで、一通り形《かた》がつきましたが、この事件から起った風聞というものは、全軽井沢の町を圧し、早くも善光寺平から、坂本の宿外《しゅくはず》れを走りました。
この小勇者、米友の勇気に驚嘆する声が街道に満つると共に、最初逃げ隠れたお差控え候補の侍の弱さかげんを嘲るものもあれば、また、身分があれば相手を嫌うから、あれもまた無理のない態度だと弁護を試むるものもある。また今日、この軽井沢へ泊り合わせた客人のうちに、相当腕に覚えの人もあろうのに、検視に立会うことすらしなかったのは情けない――と嘆くもある。喧々囂々《けんけんごうごう》たるうちに、誰にもわからないのは、道庵先生なるものの了簡方《りょうけんかた》です。いったい、あの先生は強いのか、弱いのか、どういう了簡で裸松の喧嘩を買って出たのか、その了簡のわかったものが一人もありませんでした。ところが、当の道庵先生はいよいよ上機嫌で、
「なあに……わしが手を下すまでのこともねえのさ……弟子に任せておいて、ちょっとあのくらいのものさ。そりゃあそうと、怪我をさせっぱなしもかわいそうだから、ひとつその裸松様というのを見舞って上げずばなるまい」
と言って道庵は、群がる人をかきわけて、倒れている裸松の傍へよって診察をはじめましたから、皆々、いよいよ気の知れない先生だと思いました。
道庵の介抱によって、裸松も正気がつきました。けれど身体が利《き》かず、右の腕は打ち折られて用をなさなくなっていますから、気が立つだけで、仕返しをするの力は絶対にありません。生命に別条はないが、不具《かたわ》にはなるだろうとの診立《みた》てで、かえって土地の人が安心しました。
こうして裸松は問屋場へ担《かつ》ぎ込まれる一方、道庵、米友の二人は、多数の人に囲まれて、胴上げをされんばかりの人気で、玉屋の宿へ送り込まれました。
道庵主従を送り込んだ後も、軽井沢の民衆は、容易に玉屋の家の前から立去りません。
玉屋の前は真黒に人がたかって、そうして口々に、さいぜんの小童《こわっぱ》の強かったことの評判です。
いずれも自分だけが、委細を見届けているような口ぶりで、身ぶり、手真似《てまね》までして見せて、つまり、あの小童は棒使いの名人だということにおいては、誰も一致するようです。
だから、あれだけの短い棒で、さほど数も打たず、強くも打たないで、裸松ほどのものを倒してしまった、おそるべき手練の棒使いだということが、誰いうとなく一般の定評となってしまいました。
次に、道庵先生の評判になると、や
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