人気を占めていました。ついでにお気の毒ながら、その時分の下郎共の口の端《は》にのぼった悪《にく》まれ唄を紹介すると、
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人の悪いのは鍋島薩摩、暮六ツ泊りの七ツ立ち
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というのがその一つ。
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お国は大和の郡山《こおりやま》、お高は十と五万石、茶代がたった二百文
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というのもその一つ。
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銭は内藤|豊後守《ぶんごのかみ》、袖からぼろが下り藤
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というのもその一つ。
 その他、参覲交代《さんきんこうたい》の大名という大名で、この下郎共の口の端にかかって完膚《かんぷ》のあるのはないが、百万石、加賀様だけは別扱いになって、さのみ悪評が残らない――
 だから、宇治山田の米友が、一途《いちず》に加賀守の横暴を憤《いきどお》り出したのは、筋違いでした。
 けれども、唇がワナワナと慄《ふる》えて、杖槍を握る手と腕が、ムズムズと鳴り出したのは、どのみち、相手が相手だから……という武者振いの類《たぐい》です。
 驀進《まっしぐら》に――但し、跛足《びっこ》を引いて、夕暮の軽井沢の町を、怒髪竹の皮の笠を突いて馳《は》せて行くと、
「友様……米友様……」
と助けを呼ぶの声。意外にも程遠からぬ路傍で起りました。
 見れば雲つくばかりの無頼漢。遠目で見てさえも、加賀様の御同勢とは見えません。

         五

「お、おいらの先生を、ど、どうしようというんだ?」
 米友はまず振別《ふりわけ》の荷物を地上へ投げ出しました。
 荷物を地上へ置くのと、その手にした杖槍を取り直したのと、どちらが早かったかわかりません。
 その独流の杖槍――穂のすげてない――は電光の如く、裸松のいずれの部分を突いたかわからないが、大の男の裸松が、物凄《ものすご》い声を出して後ろへひっくり返りました。
「先生、怪我はなかったか?」
 米友は早くも、道庵の背中の上の切石をはね飛ばして、それを介抱をしようとすると、道庵が桔槹《はねつるべ》のように飛び上りました。
「占《し》めた! もう占めたもんだ」
 飛び上って二三度体操をしましたから、それで米友も安心しました。
 それはそれで安心したが、安心のならないのは、ちょうどその時分、いったん後ろへひっくり返った裸松が、怖るべき勢いで起き直って来たからであります。
「野郎!」
 米友を一掴《ひとつか》みにして、引裂いて食ってしまう権幕で迫って来たその形相《ぎょうそう》が、人を驚かすに充分です。
 それは今、米友の一撃を、眉と眉の間に受けて、そこから血が流れ出したからです。
「何だ!」
 そこで、米友が一足さがって杖槍を再び取り直しました。
「野郎!」
 裸松は野獣の吠《ほ》えるような勢いをして、米友にのしかかって来たのを、米友が、
「ちぇッ」
と言って、その肩を右から打つと、裸松が再びひっくり返ろうとして、危なく踏みとどまりましたが、よほど痛かったと見えて、目をつぶって暫く堪《こら》えているところを、米友が下から顎を突き上げると、裸松が一堪《ひとたま》りもなくまた後ろへひっくり返って、暫くは起きも上ることができません。
 これは米友の手練《しゅれん》だから、どうも仕方がありません。無法で突くのと、手練で突くのとの相違は、心得さえあれば直ぐにわかるはず。いわんや一撃を食《くら》ってみれば、その痛さかげんでも、大抵わかりそうなものだが、この裸松にはわかりませんでした。自分が後《おく》れを取ったのは、つまり自分が力負けをしたものに過ぎない、不意を襲われたために、この小童《こわっぱ》にしてやられたのだ、用心してかかりさえすれば、なんの一捻《ひとひね》りという気が先に立つのだから、負けていよいよ血迷うばかりで、彼我《ひが》を見定めるの余裕があろうはずがありません。でも、この小童の手に持つ得物《えもの》の、思いもつけぬ俊敏さに業《ごう》が煮えたと見えて、三度目に起き直った時、路傍に有合わせた松丸太を握っていたのは、多分この丸太で、小童ともろともに、そのめまぐるしい得物を、微塵にカッ飛ばしてやろうとの了簡方《りょうけんかた》と見えます。
 この時、両側の店々では、戸を細目にあけたり、二階の上に立ったりして、街道中《かいどうなか》の騒動に眼をすましました。眼をすまして見ると、相手は相も変らず裸松だが、一人はホンの子供です。夕暮の町で遠くから見れば、米友の姿は、誰にも子供のようにしか見えないのだから、知らないこととはいいながら、気の強い子供もあればあったものと、舌を巻かないものはありません。
 裸松が、その松丸太をブン廻してもり返した時に、米友は、また少しばかり後ろへさがって、その杖槍を正式に構えて、円い眼をクルクルと廻
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