うも大変な事になっちまいましてね」
「何、何が大変だい――」
 米友が思わず意気込みました。
「だからお留め申したんですけれども、お聞入れがないもんだから、仕方がございません」
 宿の男衆が申しわけばかり先にして、事実をいわないものだから、米友がいよいよ急《せ》き込みました。
「おいらは申しわけを聞いてるんじゃねえぜ、先生がこっちへ来たか、来ねえか、それを聞いてるんだぜ、来なけりゃ来ねえように、こっちにも了簡《りょうけん》があるんだからな」
「それがまことにどうもはや……」
「来たのか、来ねえのか。おいらの先生は下谷の長者町の道庵といって、酔っぱらいで有名なお医者さんだ、その先生がこっちへ来たか、来ねえか、それを聞かしてもらいてえんだぜ」
「へえ、おいでになりました、たしかにおいでになりました」
「そうか、それでおいらも安心した、そうして先生は、お前の家へ泊っているのかい?」
「へえ、手前共へお着きになりました、それからが大変なんでございます、まことに申しわけがございませんが……」
「お前のところへ泊って、それからどうしたんだい……何が大変なんだ」
 米友は事態の穏かでないことを察して、地団駄《じだんだ》を踏みました。何か変った事が出来たに相違ない。先生としては、世話が焼けた話だが、自分としては、職務に対して相済まないと、米友の胸が騒ぎ出しました。
「早く言ってくんねえな、おいらの大切な先生だ、何か間違いがあった日にゃ、おいらが済まねえ」
 米友はまるい目を烈しく廻転させますと、木戸番も、宿の男も、いよいよ恐縮して、
「まことにはや、飛んだ御災難で……先生が、お留め申すのもお聞入れないもんだから、つい悪い奴につかまってしまいなすって……」
「ナニ、おいらの先生が悪い奴につかまったって……? 冗談《じょうだん》じゃねえ、その悪い奴というのは何者だい、胡麻《ごま》の蠅か、泥棒か、それとも街道荒しの浪人者か。それがどうしたい、悪い奴につかまった? おいらの先生が、それからどうしたんだい?」
「ただいま、ひどい目にあっておいでなさいます……」
「何……? ただいまひどい目にあっておいでなさいますだって? ばかにしてやがら、ひどい目にあっておいでなさいますなら、ナゼ助けておやり申さねえのだ」
「それがどうも……」
 米友は、木戸番と、男衆を突き倒して、疾風の如く軽井沢の町へ駈け込みました。
「やい、やい、軽井沢にゃあ、宿役も、問屋も無《ね》えのかい、人がヒドイ目にあっているのを、助けるという奴がいねえのかい。冗談じゃねえ、おいらの先生をヒドイ目にあわせようという奴は、どこにいるんだ、やい」
 米友がこう叫んで歯がみをしながら、軽井沢の町の真中を走《は》せ通りました。
 またいけない! とその声を聞いた町の者が、再び顫《ふる》え上りました。あのお医者さんの連れというのが来たな、いいところへといいたいが、ほんとうに悪いところへ来た。一人でたくさんなのに、また一人ヒドイ目に逢いたがって来た。裸の松の怖るべきことを知らないで、相手になりたがって来た。いったい、気が利《き》かないじゃないか。桝形《ますがた》の茶屋の番人は何をしている。あそこで食いとめて、こちらへ入れないようにしたらよかりそうなものじゃないか。
 入って来た以上は、仕方がない――
 その時です。歯がみをして、軽井沢の町へ怒鳴り込んだ宇治山田の米友は、ふと足もとにころがる一つの提灯《ちょうちん》を見て、まず穏かでないと思いました。
 その提灯は梅鉢の紋、それがいわゆる菅公以来の加賀様の紋であって、その下に「御用」の二字。
 ああ、なるほど、わが道庵先生は、この加賀様なるものの手先にとっつかまって、難題を起しているのだなと、早くも感づきました。相手が百万石の加賀守では、駅の者も手出しができないで、その亡状《ぼうじょう》に任せているのだなと米友が気取《けど》ると、またも歯をギリギリとかみ鳴らしました。
 こういう場合の米友には、義憤と、反抗とがわいて、相手が強ければ強いほど、ふるい立つのを例とする。
 てっきり、これは百万石の加賀守のお供先が、何かの行違いで、わが道庵先生をつかまえて、暴圧を加えているのだな、とこう感づきました。それで彼は、この提灯の梅鉢の紋に向って、反抗の心が潮《うしお》の如くわき出したのです。
 しかし、これは少なくともこの際、米友の推察は立入り過ぎていました。邪推とはいわないけれども、筋道の考え方が生一本《きいっぽん》に過ぎていました。
 いわゆる百万石、加賀様の御威勢は、この街道に於て、そんな圧制なものではない。むしろ、その寛大と、鷹揚《おうよう》と、自然、金銀の切れ離れのよい大大名ぶりは、この街道筋の上下を潤《うるお》して、中仙道、一名加賀様街道といわれたほどに
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