》しの体《てい》で、興行は大当りに当ったが、お銀様というものに逃げられたのが癪《しゃく》で、金助をとっちめてみたところがはじまらない。
 ともかく、切支丹奇術大一座の興行を、一世一代として見れば、この辺で水商売の足を洗いたくもあったのでしょうが、どうも世間というものは、そう綺麗《きれい》さっぱりとくぎりをつけるわけにはゆかないと見え、お角に興行界を引退の意志があると見て、やれ馬喰町《ばくろちょう》に宿屋の売り物があるから引受けてみないかの、地面家作の恰好《かっこう》なのがあるから買わないかの、上方料理の変った店を出してみる気はないかの、甚だしいのは、両国の興行をそっくり西洋へ持ち出してみる気はないかのと、八方から話を持ち込んで来るので、お角もうるさくなりました。
 どのみち、娑婆《しゃば》ッ気《け》が多く生れついてるんだから仕方がない――尼さんにでもなってしまわない限り、水を向けられるように出来てるんだと、お角も諦《あきら》めはしたが、そうそうは身体《からだ》が続かないよといって、この機会にお梅を連れて、伊豆の熱海の温泉へ、湯治と洒落《しゃ》れ込むことに了簡をきめたのです。
 湯治に行く前に、お礼参りを兼ねて、今日は観音様へ参詣して、御籤《おみくじ》までいただいて来たのですが、もう一つお角の腹では、今度の一世一代が大当りの記念として、浅草の観音様へ、何か一つ納め物をしようとの考えがあって、額にしようか、或いはまた魚河岸の向うを張った大提灯でも納めようか、そうでなければ、屋の棟に届くほどの金《かね》の草鞋《わらじ》を、仁王様の前へ吊《つる》してみようかのと、お堂を廻《めぐ》りながら、そういう趣向に頭を凝《こ》らしに来たのです。
 お角の頭は、まだその趣向で、あれかこれかと悩まされ、往来の事なんぞは頓着なしに歩いて行くと、ある店の前でお梅がぴたりとたちどまって、
「まあ、いいわね」
 詠嘆の声を洩《も》らしましたので、お角もそれにつれて足を止めました。
 見れば、お梅は羽子板屋の前に立っている。
 まだ歳の市という時節でもないのに、この店では、もう盛んに羽子板を陳列している。江戸ッ子のうちでも途方もなく気の早いせいでしょう。それで、この十月までの各座の狂言のおもな似顔が、みんなここへ寄せ集められている。さてこそ、お梅は立去れないので、
「まあ、いいわね」
を譫言《うわごと》のようにいっていると、
「梅ちゃん、どれがいいの?」
 お角から尋ねられたのを上《うわ》の空《そら》で、
「どれもこれもみんないいわ」
「いちばんいいのをお取り」
「いいえ、わたし、千代紙でたくさんなのよ」
「この嫗山姥《こもちやまうば》がいいだろう」
「まあ……」
 お梅は仰天してしまいました。その五彩絢爛《ごさいけんらん》たる八重錦の羽子板の山の中で、いちばん優《すぐ》れて、いちばん大きい嫗山姥、まさか買って下さいともいえないが、買って下さるはずもないとお梅が仰天している間に、お角は番頭に交渉し、さっさとその大一番の嫗山姥を買取って、お梅に持たせたから、お梅がひとごとではないと思いました。
 お角は相変らず奉納の趣向を考え、お梅は有頂天《うちょうてん》になって、駒形通りへ出ました。
 お角が駒形堂の前へ来ると、ちょうどその船つきへ小舟が着いたところで、幾多の人がゾロゾロと河岸《かし》へ上りました。
 そのなかに、お角の眼をひいたのは、図抜けて大きな人が、西洋の蝙蝠傘《こうもりがさ》をさして上って来たことで、蝙蝠傘の流行は、今ではさして珍しいことではないが、まあ、どちらかといえば非常なハイカラな、新し好みの人に多かったのを、これは実にバンカラな人が、その流行ものの傘をさして、のこのこと出て来たから、それで一層お角の目を惹《ひ》いたのでしょう。お角ばかりではない、誰でもみんな、そちらを眺めました。
 この大男は誰あろう、足利《あしかが》の絵師、田山白雲でありました。しかも、これは房州戻りそうそうの、江戸の土を踏んだ初めての見参《げんざん》なのですが、さすがの白雲も、芸術家並みに頭の古いといわれるのを嫌がって、それでハイカラの傘を仕込んで来たと見るのは僻目《ひがめ》で、これは洲崎《すのさき》の駒井の許を立つ時に貰って来たのでしょう。それもハイカラのつもりで貰って来たのではなく、日のさす時は日除けになり、風の吹く時は風除けになり、雨の降る時は無論、結構な雨具に相違ない。その上折畳みが自由に利《き》くから、実用無類の意味で、駒井の物置から探し当てたものとも思われます。
 とにかく、こうして蝙蝠傘《こうもりがさ》をさして、ゆらりと江戸の浅草の駒形堂の前の土を踏んだ白雲の恰好《かっこう》は、かなりの見物《みもの》でありました。それは、頭の上だけは例の大ハイカラ蝙蝠傘で新し
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