取扱はんとせば、それにて済むべきや、先づ世の中の笑はれものなるべし」
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も確かに肯綮《こうけい》に当っている。
 それより外国と貿易をすれば、無用の物が殖《ふ》えて、有用の物を取られてしまうという心配の愚なことを解釈し、日本国中の学者先生がたいがい残らず海防策というものを書いて、頭から外国人を盗人に見てかかるの陋《ろう》を笑い、最後には、
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「されば地図でこそ日本は、世界の三百分の一つばかりに見る影もなき小国のやう思はるれども、その実は全世界を三十にわりてその一分を押領《おうりやう》するほどの人数を持てる国なり、まして産物は沢山、食物は勿論……」
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と土地は小なれども人口の大なることに自信を持たせて、盛んにヨーロッパ文明を取入れることを主張している論旨は闊大《かつだい》にして、精神は親切に、文章は例の痒《かゆ》いところへ手の届くようです。
 田山白雲がその頃では最新版に属する「西洋事情」を読み出したのは、それからまもない時であります。
 前の匿名《とくめい》の写本「唐人往来」も、この新刊の「西洋事情」も、等しく福沢諭吉の著述であることは申すまでもありません。
 当時のすべての階級がこれらの著作によって教えられた通り、田山白雲もほとんど革命的の知識を与えられました。
 白雲思うよう、今まで、多少西洋の翻訳書も見たが、それは兵術家は兵術のために、医者は医者のために、語学者は語学のために著《あらわ》されたもののみで、この人の著作のように、包括的に西洋というものの全部を見せてくれた人はない。しかもその見せてくれぶりが、雲霧を払って白日を示すように鮮かなものである。今までの単に鉛管を引いてタラタラと水を流してくれるに過ぎなかったのが、この人のみが巨大なる鉄管を以て、滔々《とうとう》と滝の如くに日本へ向けて、西洋文明の水を落してくれるようだ。
 田山白雲も、この書物を通して、そぞろに巨人の面影《おもかげ》を認めずにはいられなかったようです。
 事実、幕末明治はあれだけの劃時代の時でありながら、その全体を代表する人物を求める日になると、茫然自失する。
 西郷の功大なりといえども、かれ一人でこの時代を代表すること秀吉の如く、家康の如く、尊氏《たかうじ》の如くありはしない。各藩の各種の人傑、おのおの一人一役を以て王政維新という事業に参加しているまでで、維新が中心となって、人物が主とならないのはあの時代の特色といえる――もし、強《し》いて象徴的に幕末維新というものを代表する巨人を選定せよとならば、そは西郷よりも、大久保よりも、木戸よりも、福沢諭吉が相応《ふさわ》しかろう。
 田山白雲も、そこまでは考えなかったろうが、この巨人が時代の渇望に向ってしかけてくれた鉄管の水の豊富なるに驚喜もし、詠嘆もせずにはおられなかったろうと思われる。
 だがしかし、驚喜も、詠嘆も、するはしたけれど、まだ物足らないところはいくらもある。第一、自分が現在尋ねているこの不可解の西洋画の内容においても、外形についても、「西洋事情」は少しも、説明も、暗示も、与えてくれないではないか。それのみか、このあいだ房州へ行った時、支那の少年|金椎《キンツイ》が説いて、駒井甚三郎ほどのものが解釈しきれなかった耶蘇《やそ》の教えというものも、この書物が是とも非とも教えていないではないか――そのほか、白雲はまだ風馬牛《ふうばぎゅう》ではあるが、その耶蘇の教えと並んで、西洋文明の血脈をなしているというギリシャ系統の学問についても、この書物は少しも力を入れていないではないか。
 西洋というものの建物の目下の全体を見せてくれるためには、さほど驚喜すべく、詠嘆もすべき書物でありながら、内容に立入ると物足らないこと夥《おびただ》しい――と白雲はようやくそれに気がつきました。広く知る次には、深く見たいものだと白雲が、望蜀《ぼうしょく》を感じたのはぜひもありません。
 ともかくも、あちらの書物を読まねばならぬ、直接にあちらの書物が読めるようにならなければならぬ――との慾求は、これらの著述を読むことによって、ようやく強くされてゆくことは疑うべくもありません。
 よって、白雲はまた一層の熱心を以て、例の初歩の語学書と首っ引――「華英通語」によって紙をパーペルと知り、絵をピキチュールと知り、絵相師《えそうがき》をポールトレート・ペーヌタル、筆がペンシル、顔がフェース、頭がヘッド、足がフットと覚えて行った程度では満足ができない。
 しかるべき塾へ入門し、しかるべき師につくということは、この種類の人間にはなかなかおっくう[#「おっくう」に傍点]なもの――
 ところで白雲が、再び駒井甚三郎のもとへ行こうという気になりました。切支丹を描いて観音に納め
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